第一話 奴→僕
僕は今、逃げている。とてつもなく強大な殺意から。とてつもなく愛くるしい女性から。
僕は今、市場の暗くじめっとした路地裏に隠れている。隠れて、何とか今の状況をしのごうと言う訳だ。今のところ彼女の気配は感じられない。僕は一息つく。
……にしてもあの女性が、こんなにも残虐だったとは。相変わらず人は見かけによらない。どんなに可愛い容姿を持つ美少女にも、性格と言う名のモンスターが住んでいたりする。改めてそれを実感した。
僕は息が整い始めると、あごを傾け、建物に切り取られた狭い青空を仰ぎ見た。暗い路地裏から見た青空はとても鮮やかに見える。その空の中を流れる雲の白色は混じりけが無く純粋だった。雲の流れが早く感じる。路地裏から観た空が狭いからだろうか……。狭くて暗い路地裏で、僕は物思いにふける。
「………………。あんなに可愛い女性に会えたのは久しぶりだったなぁ。そして、あんなに強大な殺意を持ち、残虐な発想を持つ女性に会うのも、久しぶりだ。」
「誰が強大な殺意と残虐な発想を持った美少女なの?」
気付くと僕の視界は一人の女性によって遮られていた。彼女は壁にもたれかかって座り込んでいる僕の足の上らへんに立ち、上から見下ろすようにして僕を引きつった笑顔で見つめる。
バラの様に紅い、妖しくも艶やかな長い髪。血のように赤い、美しく麗しい大きな瞳。さわり心地が良さそうな日に焼けない白い綺麗な肌。純粋な少女のように低い背丈。花を思わせる小さなひらひらがついたワンピース。そう。彼女はこんな外見だった。
「って、御本人!?」
「やれやれ……今気付いたのね……。」
馬鹿のように驚く僕に、彼女は呆れまじりにそう呟いた。というか、なんでこうもたやすく見つかった?それでなくても、この僕に気配を感じさせずに近づけたんだ?
「それにしてもしても、アナタもドジを踏んじゃったみたいね。こんな人ゴミに紛れ込むなんて。」
「あっ!そうか。それで……。」
僕のひとつの疑問が一瞬にして解けた。彼女がこの僕に気配を感じさせずに近づけた理由。それは単なる僕のミスだったようだ。
「そうそう。アナタが思っている通りよ。人ゴミに紛れ込んだのは、私を派手に暴れ狂わせなくするつもりだったんでしょ?でも、それが裏目に出たわね。」
彼女は得意げに鼻を鳴らしながら、小さな胸を張りながらそう言った。そして、その推測はずばり的中。的外れな憶測ではない。実際僕はその目的で市場に逃げた。だけど、彼女の言ったとおりこれが裏目にでてしまったみたいだ。
「アナタっておおかた気配察知系の魔術か身体能力を持っているんでしょ?しかもかなり高性能な。じゃなきゃなきゃ、このあたしからこんなにも長い時間逃げられる訳ないもの。」
彼女は高らかに自分の推測を謳い上げなさった。この結論にいたった理由が自信過剰な気もするが、この推測も間違いじゃない。ちなみに僕の場合は身体能力からなる気配察知だ。僕は、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚と呼ばれる人間の五つの主な感覚、つまり五感がかなり優れている。そのため、普通の人間では気付けないような微かな情報をはっきりと認識できる。
この人間離れした五感を駆使することによって、気配と言うアバウトなものを具体的に感じれると言う訳だ。言うなれば六つ目の感覚、つまり第六感。まさに『感覚』そのもの。だけど、この第六感の『感覚』も完璧じゃなかった。多数の人の中から、その特定の人物を区別することはできないみたいだ。
こんな人だらけの市場に逃げこんだ時点で、気配察知に期待するべきじゃなかった。これは完璧に僕のミス。こんな風に追い詰められたのは僕のミスのせいだけでは無いのだけれど、自分の失敗は自分で取り返さないと!そう思った瞬間、僕は口を開き、手を動かす。
「あ!!かわいい犬みたいな雲だ!!」
僕はこんしんの演技をして、路地裏の狭い空を指差す。これにかからない人間はいない。はずだ。一瞬のすきさえできれば、僕なら逃げれる!さぁ、振り返るんだ!雲ひとつ無くなった青空を!
「……そんな猫だましに引っかかるとでも思ったの?本当にやれやれだわ。しかもアタシは犬よりにゃんにゃ……猫の方が好きなの!」
彼女は逆にそのきれいな細い人差し指を僕に向けた。まさか、これが効かないとは。なんて末恐ろしい。まぁ、それはいいとして、今、この娘、何か言いかけたけど?にゃんにゃ?僕が不可解な顔をしていると、彼女の頬は林檎のように突然赤くなりだした。僕はその反応が気になって、一つの質問を無邪気にたずねる。
「にゃんにゃって何?」
「……それはそれは今関係ないでしょ?別にその話を引っ張り出す必要無いじゃない。だから、ね?その話はもういいのよ。」
彼女は必死にごまかそうとしているが、見るからに焦っているようだった。僕は面白くなっ……いや、彼女の理不尽な返答に納得いかず、またさっきの質問をたずねる。
「ねぇ、だからにゃんにゃって何のこと?」
「も、もうもう!それは気にしちゃダメなんだから!アタシが言いたいのはそれとは関係なくてっ!だからだから!その!あのっ!あぅぅ……。」
彼女は完璧に混乱しだした。なんてからかいがいのある娘なんだ。僕は暖かい眼差しで彼女を見つめる。可愛いくも色っぽいうめき声を出し、きれいな色白の頬を真っ赤に赤らませ、いづらそうにもじもじする彼女を。……か、可愛い!!あれ、なんかこっちまで火照ってきた。やばい、これは止められない!ぐぁぁぁぁぁぁ!もっと!もっとだ!もっとなんだぁぁぁぁぁっぁ!俺の理性は音を立てて弾けとんだ。
「ん?どうした?どうしてそんなに照れてるんだい?君をそこまでするにゃんにゃとはいったいどう言った意味なんだい!?言えないほど恥ずかしい意味なのかい!?ええ!?」
気付いた時にはそんなことを口走っていた。なんていうか、もはや犯罪者だ。そして彼女はと言うと俯いてしまっていた。そして何か口を小さく動かして呟く。
「……コロス。」
あれ?今なんか不吉な単語が聞こえたような?いや、そんな筈無い。だって今彼女も凄い静かな殺意を帯びた笑顔だし。あれ?なんで静かな殺意を帯びてるんだ?
「コロス、コロス、コロス、コロス、コロス!!!」
しまった。ちょっとからかいすぎちゃったか?なんかこの娘、変な状態に入っちゃってる。そんなことを考えていると、彼女の周りから紅色の霧が激しく噴出されだす。これが何かは解らなかったが、僕は身の危険を感じられずにはいられなかった。それにもしここで暴れ狂われたら、市場の人たちが巻き添えを食らう。どうする。どうする。
そう悩んでいるうちに紅色の煙は強さを増す。僕は思わずそれを手で遮る。路地裏に捨てられたごみ達も吹き飛ばされ始める。これは、やばい!だが、この状況はどう解決する?彼女はこんな状態で何を言っても聞いてくれそうに無いし、僕は逃げることしかできない。くそっ!こうなったら!
「頼む!止めてくれ!!」
正直、「くそっ!こうなったら!」の続きは考えていなかった。けど、体が勝手に動いてくれた。いや、この場合勝手に行動してしまった……か。
「……。……え?」
紅色の霧の噴射が勢いを弱めていく。そしてついには止まった。彼女も我にかえったのか、訳も解らないような感じで表情を緩めている。
「とりあえず落ち着いてくれ!からかったのは悪かった!だけど怒るのは後にしてくれ!ここで暴れたら無関係な人達まで巻き込むことになる。だから、落ち着いてくれ。」
「え、あ、ごめんなさい……。というか、えっ!?なんで抱きついてるの!?」
そう。咄嗟に僕がしたこと。それは小さな彼女に抱きついたことだ。それとさっきから、なんか体のあちこちが柔らかくて、温かくて、気持ちいい。抱きしめた小さな肩も、お腹辺りにあたってる控えめな胸も、着ている服さえも柔らかい。肩を越した髪の毛もさらさらしていていい手触りだ。そして彼女に触れている部分はぬくぬくしている。なんか微かに甘いいい匂いもするし、このまま寝たい。そういや逃げ疲れてたな、僕。