婚約破棄されたので、復讐は同人誌で行いますわ。
「ヴィクトリア! 君との婚約を破棄する」
王立学院の卒業記念夜会。
生徒だけでなく、王族や高位貴族まで集まった大広間の中央で、私の婚約者であるアルト殿下は、よく通る声でそう宣言した。
その瞬間、私の頭に浮かんだことは一つです。
――売れますわね、この題材。
さて皆様は、「完璧な婚約破棄」と聞いて、何を思い浮かべますでしょうか。
たとえば私が、嫉妬に狂った悪役令嬢だったとしましょう。
殿下のそばにいる可憐な聖女を陰湿にいじめる。
しかも、その手口は驚くほど杜撰で、目撃者も証拠も山ほど残っている。
おまけに酒と賭博に溺れ、「パンがなければケーキを食べればよろしくてよ」と高笑いする傲慢な女。
そんな令嬢であれば、私がどれほど反論しても、誰も耳を貸さないでしょう。
まさに完璧。
異論を挟む余地のない婚約破棄ですわ。
おほほほ。
まあ、私、そのどれ一つとしてやっておりませんけれど。
めちゃくちゃ普通に生きてきましたもの。
朝は決まった時間に起き、家庭教師の授業を受け、王太子妃教育に耐え、夜会では壁の花になり、殿下の隣で微笑む。
公爵令嬢としては模範的。
面白みのない女と言われれば、それまでですけれど。
「君は、私の愛するミレイユに、数々の嫌がらせを行った」
おやおや、私のことは愛していないのでしょうか。
アルト殿下は、かばうように少女の肩を抱きました。
ミレイユ・コレット。
平民出身でありながら光魔法の素質を見いだされ、教会から聖女候補に選ばれた少女です。
淡い銀髪に、透き通った紫色の瞳。
小柄で、どこか庇護欲を誘う容姿をしています。
殿下に肩を抱かれたミレイユは、青ざめた顔で私を見ていました。
勝ち誇っているようには見えません。
むしろ、「どうしてこんなことになっているのですか」と、その顔に大きく書かれておりますわ。
「具体的には、どのような嫌がらせでしょうか」
扇子を開き、堂々たるたたづまいを披露する。
婚約を破棄をされた悲しみよりも、この先の展開への好奇心の方が強い。
「まず、この手紙だ!」
アルト殿下が、一通の手紙を突き出しました。
近くに控えていた従者が受け取り、私のもとへ運んできます。
便箋には、赤い文字でこう書かれていました。
『身の程を知りなさい。この泥棒猫』
あらまあ。
語彙がずいぶん庶民的ですこと。
前世なら昼の連続ドラマでしか聞かなかった台詞ですわ。
「その手紙には、ローゼンハイム公爵家の封蝋が押されている。君が書いたことは明白だ」
「殿下」
「なんだ」
「こちらの薔薇は、花弁が七枚ございます」
「それがどうした」
「我が家の紋章に描かれている薔薇は、八枚で、数が違いますわ」
会場が静まり返ります。
私は扇子の先で、封蝋を指しました。
「こちらは、よく似せて作られた偽物です」
「そ、それは……君が偽物を使い、自分に疑いが向かないよう細工したのだろう!」
無敵の理論が出ましたわね。
証拠が本物なら私が犯人。
偽物でも私が犯人。
これでは反論の余地がありません。
なるほど。
ある意味で完璧な婚約破棄ですわね。
「では、筆跡をお調べくださいませ。王宮には、私がこれまで提出した書類が残っているはずです」
「他人に書かせた可能性がある!」
「左様でございますか」
私は手紙を従者へ返しました。
「では、私が他人に書かせた証拠を教えてください」
「ぐっ……」
殿下の端正なお顔が、わずかに引きつります。
アルト・フォン・バイエルン。
前世の私なら、お名前を聞いて最初にソーセージを思い浮かべたことでしょう。
しかし、お顔を見れば、そのような冗談は口にできません。
青空を閉じ込めたような碧眼。
絹糸のような金髪。
高い身長に、透き通るような白い肌。
物語に登場する完璧な王子様を、そのまま現実へ連れてきたような男性です。
少なくとも、黙っていれば。
「手紙だけではない! 先月、ミレイユが大階段から突き落とされた。君が現場から立ち去る姿を見た者がいる!」
「先月の何日でしょうか」
「十二日だ。昼の鐘が鳴る少し前だった」
「その時間、私はお茶会に出席しておりました」
王太子妃教育の一環として、毎月十二日に開かれるお茶会です。
あの日は三時間ほど、笑顔の角度についてご指導いただきました。
口角を上げすぎれば軽薄。
下げすぎれば不機嫌。
あまり動かさなければ冷淡。
最終的に、「あなたの笑顔には華がありません」と言われました。
忘れたくても忘れられませんわ。
「私の侍女も、会場の控え室におりました。聞けばすぐに分かるはずでわ」
「では、別の者に命じたのだ!」
「殿下」
か細い声を上げたのは、ミレイユでした。
「わ、私、ヴィクトリア様に突き落とされたとは、一度も申しておりません」
「ミレイユ。君は彼女を恐れているから、そう言うしかないのだろう」
「いえ、そうではなくて……後ろから誰かにぶつかられたことは確かです。でも、相手の顔は見ていません。ヴィクトリア様を見たという話も、私は今日初めて聞きました」
アルト殿下の手が、ミレイユの肩から離れます。
会場に集まった人々が、互いの顔を見合わせました。
ささやき声が、少しずつ広がっていきます。
これは、よろしくありませんわね。
もちろん、殿下にとって。
「ミレイユ」
「は、はい」
「もう怯えなくていい。私は、必ず君を守る」
「えっ?」
ミレイユの顔に、心底困惑した表情が浮かびました。
駄目ですわ。
笑ってはいけません。
ここで笑えば、殿下を侮辱したことになってしまいます。
私は扇子で顔の半分を隠し、奥歯を噛み締めました。
「ほかにも、君はミレイユの教本を破り、夜会ではドレスに葡萄酒をかけた!」
「教本ですか……やってないことを否定する気にもなれませんわ」
「葡萄酒はどうだ!」
「それな、否定できますわ。あれは給仕が転んだためです。殿下も向かい側のテーブルにいらっしゃったはずですわよ」
「……しかし、その給仕を転ばせたのは君かもしれない!」
どうしてしまわれたのでしょう。
以前のアルト殿下は、聡明で穏やかな方でした。
私が疲れていると、こっそり甘い菓子を差し入れてくれたこともあります。
幼いころ、初めて参加した舞踏会で足が震えていた私に、「私も緊張している」と笑ってくださいました。
あの優しさが偽物だったとは思いたくありません。
けれど、今、私の前に立っている殿下は、事実を確かめようともせず、一人で作り上げた物語に酔っている。
自分は虐げられた聖女を救う正義の王子。
私は二人の愛を邪魔する悪役令嬢。
その配役を崩す言葉は、最初から聞くつもりがないのでしょう。
「アルト殿下」
私は扇子を閉じました。
「殿下が私を愛していないことは、よく分かりました」
「なに……?」
「ですから、理由を捏造する必要はございません。ミレイユ様を愛しているから私と別れたい。そうおっしゃればよろしかったのです」
「私は捏造などしていない!」
「でしたら、正式な調査を行いましょう。手紙の筆跡、封蝋の入手経路、当日の入退室記録。これだけの人々の前で公爵令嬢を断罪なさったのです。王家には、真相を明らかにする責任がございます」
殿下は答えませんでした。
美しい碧眼が、助けを求めるように周囲をさまよいます。
けれど、ここにいるのは殿下が招いた観客です。
誰も舞台へ上がって、台本を書き直してはくれません。
「……たとえ、嫌がらせの証拠が不十分だとしても」
しばらくして、殿下は絞り出すように言いました。
「私が君を愛していないことに変わりはない。私は、ミレイユと共に生きていきたい」
胸の奥が、針で刺されたように痛みました。
そうですか。
結局、それがすべてでしたのね。
十年以上、婚約者として隣にいた私より、出会って半年の少女を選んだ。
その事実だけなら、受け入れることもできたかもしれません。
恋心は命令できるものではありませんもの。
ですが、私を悪人に仕立て上げ、大勢の前で踏みつけなければ、真実の愛を証明できないというのなら。
そんな愛に拍手を送る気はございません。
「承知いたしました」
私はスカートの裾をつまみ、完璧なカーテシーを披露しました。
「ローゼンハイム公爵家へ、正式な書面をお送りくださいませ。婚約破棄に伴う補償と、虚偽の告発により傷つけられた我が家の名誉については、父から王家へお話しさせていただきます」
「待て!」
背を向けた私を、殿下が呼び止めます。
「ミレイユに謝罪してから行け」
「何についての謝罪でしょうか」
「彼女を苦しめたことについてだ!」
まだ続けますのね。
「被害者のいない罪について謝ることは、罪を創作した方への加担になります」
「ヴィクトリア!」
「それでは皆様、ごきげんよう」
私は振り返りませんでした。
大広間の巨大な扉が、ゆっくりと開きます。
その向こうへ一歩踏み出した瞬間、背後から無数のささやき声が聞こえてきました。
おそらく今夜中に、この婚約破棄の話は王都中へ広まるでしょう。
しかし、人の噂は形を変えます。
三日も経てば、私は嫉妬に狂った悪役令嬢。
殿下は聖女を救った英雄。
ミレイユ様は悲劇のヒロインになっているかもしれません。
事実とは、往々にして物語より弱いものです。
それならば。
こちらも物語で戦うまでですわ。
◇◇◇
「お嬢様」
馬車へ乗り込むと、侍女のノーラが心配そうにハンカチを差し出してきました。
「泣いておりませんわ」
「存じております」
「では、なぜハンカチを?」
「お嬢様、先ほどから笑っていらっしゃいますので。口元を隠した方がよろしいかと」
私は自分の頬に触れました。
確かに、口角が上がっています。
「仕方ありませんわ。最高の題材が、向こうから歩いてきたのですもの」
「……嫌な予感がいたします」
「ノーラ」
「はい」
「次の《女神の庭》まで、あと何日でしたかしら」
「十二日です」
王都では三か月に一度、《女神の庭》と呼ばれる小規模な書物市が開かれます。
小説、詩集、画集。
大きな書店では扱ってもらえない個人制作の冊子を、作者自身が机に並べて売る催しです。
この世界では「自主制作本」と呼ばれておりますが、私にとっては同人誌即売会そのもの。
もちろん、参加しておりますわ。
サークル名は《薔薇とインク壺》。
作者名は、レディ・ブラック。
正体を知っているのは、ノーラと印刷工房の老主人だけです。
「新刊を出します」
「おやめくださいませ」
「まだ内容も話しておりませんわ」
「お嬢様がその顔をしているときは、ろくな本を描きません」
「今回は恋愛喜劇です」
「誰がモデルですか」
「完璧な王子様と、無実の婚約者と、勝手に悲劇のヒロインにされた聖女様ですわ」
「完全に先ほどの一件ではありませんか!」
ノーラが頭を抱えました。
「題名は――『完璧な王子様の、完璧ではない婚約破棄』」
「駄目です!」
「登場人物の名前は変えます」
「それでも駄目です!」
「舞台も外国にいたしますわ」
「誰が読んでも分かります!」
「最初のページに、『この物語は創作であり、実在する人物、王家、公爵家、聖女とは一切関係ございません』と明記します」
「余計に疑われます!」
注文が多いですわね。
「もし殿下から抗議されたら、こう答えます。これは架空の愚かな王子を描いた物語です。まさか殿下は、ご自分がこの愚かな王子に似ているとお考えなのですか、と」
「性格が悪すぎます……」
「褒め言葉として受け取りますわ」
「褒めておりません!」
馬車が公爵邸へ到着しました。
私は自室へ入ると、宝石箱の奥に隠していた鍵を取り出します。
机の一番下にある引き出しを開けると、中には紙の束、ペン、インク、過去に発行した冊子がぎっしりと詰まっていました。
前世では日本という国で、同人作家をしていました。
好きなことをして生きていたと言えば、聞こえはよいでしょう。
ですが、現実は地味で、つらくて、締め切りばかり。
描きたい話があっても、机の前に座るとなぜかスマートフォンを触ってしまう。
やっと描き始めたと思えば、今度は自分の絵が下手に見える。
反応がなければ落ち込み、厳しい感想が届けば三日ほど引きずる。
それでも新刊を待ってくれている人がいるから、眠い目をこすってペンを握る。
ずっと終わらない夏休みの宿題を、心に抱えながら生きていくようなものでした。
もう一度、絵を描きたいと思ったのは、この世界が退屈だったから。
舞踏会。
お茶会。
刺繍。
娯楽の豊富な日本を知っている私には、刺激が足りませんでした。
最初は一人で楽しむために描いていました。
それを偶然ノーラに見つかり、「続きを読ませてください……BLとは良いものです!」と懇願されたのが、すべての始まりです。
今では《薔薇とインク壺》の新刊を求め、開場前から列ができるほどになりました。
公爵令嬢としての私を嫌う方もいるでしょう。
けれど、レディ・ブラックの物語を待っている読者は、確かにいるのです。
「三十二ページなら、十二日で間に合いますわね」
「間に合うかどうかではなく、本当にお描きになるおつもりですか?」
「当然です」
「公爵様へ報告する方が先です」
「それはノーラに任せますわ」
「私に丸投げなさらないでください!」
白い紙を机に置きます。
ペン先をインクに浸すと、わずかに指が震えました。
アルト殿下と過ごした十年を、簡単に忘れられるはずがありません。
初めて名前を呼ばれた日。
誕生日にもらった髪飾り。
不安で眠れなかった夜に届いた、手紙。
思い出すたび、胸の奥が痛みます。
私だって、本当は悲しい。
泣きたい。
なぜ愛してくださらなかったのかと、殿下にすがってしまいたい。
だからこそ、描くのです。
この痛みを、殿下が用意した物語の中に閉じ込めてなるものですか。
私の人生の配役を、他人に決めさせはしません。
権力で噂を押さえつければ、私は都合の悪い事実を隠した悪女になる。
剣を向ければ、反逆者になる。
呪いをかければ、本当に悪役令嬢ですわ。
けれど、一度広まった笑い話は、王子様にだって止められません。
私は最初のひとコマに、大広間で胸を張る金髪の王子を描きました。
その顔は無駄に美しく。
その背後では、付き添いの聖女が困り果て。
観客たちは、王子のあまりにも雑な断罪に首をかしげています。
吹き出しに、最初の台詞を書き込みました。
『君との婚約を破棄する!』
「お嬢様」
ノーラが、諦めたようにため息をつきます。
「表紙は二色刷りでよろしいですか?」
「ええ。初版は三百部」
「多すぎます」
「では、二百部で」
「……印刷工房には私から連絡しておきます」
「さすがノーラですわ」
締め切りまで、あと十二日。
ネーム、下描き、ペン入れ、仕上げ、表紙。
時間はほとんどありません。
ですが、怒りと悲しみと締め切りに追われた同人作家は、誰にも止められないのです。
アルト殿下。
婚約破棄、確かに承りました。
ですので私の復讐は――同人誌で行わせていただきますわ。




