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婚約破棄されたので、復讐は同人誌で行いますわ。

作者: 折り紙
掲載日:2026/08/18

「ヴィクトリア! 君との婚約を破棄する」


 王立学院の卒業記念夜会。

 生徒だけでなく、王族や高位貴族まで集まった大広間の中央で、私の婚約者であるアルト殿下は、よく通る声でそう宣言した。

 その瞬間、私の頭に浮かんだことは一つです。


 ――売れますわね、この題材。


 さて皆様は、「完璧な婚約破棄」と聞いて、何を思い浮かべますでしょうか。

 たとえば私が、嫉妬に狂った悪役令嬢だったとしましょう。

 殿下のそばにいる可憐な聖女を陰湿にいじめる。


 しかも、その手口は驚くほど杜撰で、目撃者も証拠も山ほど残っている。

 おまけに酒と賭博に溺れ、「パンがなければケーキを食べればよろしくてよ」と高笑いする傲慢な女。

 そんな令嬢であれば、私がどれほど反論しても、誰も耳を貸さないでしょう。


 まさに完璧。

 異論を挟む余地のない婚約破棄ですわ。

 おほほほ。


 まあ、私、そのどれ一つとしてやっておりませんけれど。

 めちゃくちゃ普通に生きてきましたもの。

 朝は決まった時間に起き、家庭教師の授業を受け、王太子妃教育に耐え、夜会では壁の花になり、殿下の隣で微笑む。


 公爵令嬢としては模範的。

 面白みのない女と言われれば、それまでですけれど。


「君は、私の愛するミレイユに、数々の嫌がらせを行った」


 おやおや、私のことは愛していないのでしょうか。

 アルト殿下は、かばうように少女の肩を抱きました。


 ミレイユ・コレット。


 平民出身でありながら光魔法の素質を見いだされ、教会から聖女候補に選ばれた少女です。

 淡い銀髪に、透き通った紫色の瞳。

 小柄で、どこか庇護欲を誘う容姿をしています。


 殿下に肩を抱かれたミレイユは、青ざめた顔で私を見ていました。

 勝ち誇っているようには見えません。

 むしろ、「どうしてこんなことになっているのですか」と、その顔に大きく書かれておりますわ。


「具体的には、どのような嫌がらせでしょうか」


 扇子を開き、堂々たるたたづまいを披露する。

 婚約を破棄をされた悲しみよりも、この先の展開への好奇心の方が強い。

 


「まず、この手紙だ!」


 アルト殿下が、一通の手紙を突き出しました。

 近くに控えていた従者が受け取り、私のもとへ運んできます。

 便箋には、赤い文字でこう書かれていました。


『身の程を知りなさい。この泥棒猫』


 あらまあ。

 語彙がずいぶん庶民的ですこと。

 前世なら昼の連続ドラマでしか聞かなかった台詞ですわ。


「その手紙には、ローゼンハイム公爵家の封蝋が押されている。君が書いたことは明白だ」


「殿下」


「なんだ」


「こちらの薔薇は、花弁が七枚ございます」


「それがどうした」


「我が家の紋章に描かれている薔薇は、八枚で、数が違いますわ」


 会場が静まり返ります。

 私は扇子の先で、封蝋を指しました。


「こちらは、よく似せて作られた偽物です」


「そ、それは……君が偽物を使い、自分に疑いが向かないよう細工したのだろう!」


 無敵の理論が出ましたわね。

 証拠が本物なら私が犯人。

 偽物でも私が犯人。


 これでは反論の余地がありません。

 なるほど。

 ある意味で完璧な婚約破棄ですわね。


「では、筆跡をお調べくださいませ。王宮には、私がこれまで提出した書類が残っているはずです」


「他人に書かせた可能性がある!」


「左様でございますか」


 私は手紙を従者へ返しました。


「では、私が他人に書かせた証拠を教えてください」


「ぐっ……」


 殿下の端正なお顔が、わずかに引きつります。

 アルト・フォン・バイエルン。

 前世の私なら、お名前を聞いて最初にソーセージを思い浮かべたことでしょう。


 しかし、お顔を見れば、そのような冗談は口にできません。

 青空を閉じ込めたような碧眼。

 絹糸のような金髪。


 高い身長に、透き通るような白い肌。

 物語に登場する完璧な王子様を、そのまま現実へ連れてきたような男性です。

 少なくとも、黙っていれば。


「手紙だけではない! 先月、ミレイユが大階段から突き落とされた。君が現場から立ち去る姿を見た者がいる!」


「先月の何日でしょうか」


「十二日だ。昼の鐘が鳴る少し前だった」


「その時間、私はお茶会に出席しておりました」


 王太子妃教育の一環として、毎月十二日に開かれるお茶会です。

 あの日は三時間ほど、笑顔の角度についてご指導いただきました。

 口角を上げすぎれば軽薄。


 下げすぎれば不機嫌。

 あまり動かさなければ冷淡。

 最終的に、「あなたの笑顔には華がありません」と言われました。


 忘れたくても忘れられませんわ。


「私の侍女も、会場の控え室におりました。聞けばすぐに分かるはずでわ」


「では、別の者に命じたのだ!」


「殿下」


 か細い声を上げたのは、ミレイユでした。


「わ、私、ヴィクトリア様に突き落とされたとは、一度も申しておりません」


「ミレイユ。君は彼女を恐れているから、そう言うしかないのだろう」


「いえ、そうではなくて……後ろから誰かにぶつかられたことは確かです。でも、相手の顔は見ていません。ヴィクトリア様を見たという話も、私は今日初めて聞きました」


 アルト殿下の手が、ミレイユの肩から離れます。

 会場に集まった人々が、互いの顔を見合わせました。

 ささやき声が、少しずつ広がっていきます。


 これは、よろしくありませんわね。

 もちろん、殿下にとって。


「ミレイユ」


「は、はい」


「もう怯えなくていい。私は、必ず君を守る」


「えっ?」


 ミレイユの顔に、心底困惑した表情が浮かびました。

 駄目ですわ。

 笑ってはいけません。


 ここで笑えば、殿下を侮辱したことになってしまいます。

 私は扇子で顔の半分を隠し、奥歯を噛み締めました。


「ほかにも、君はミレイユの教本を破り、夜会ではドレスに葡萄酒をかけた!」


「教本ですか……やってないことを否定する気にもなれませんわ」


「葡萄酒はどうだ!」


「それな、否定できますわ。あれは給仕が転んだためです。殿下も向かい側のテーブルにいらっしゃったはずですわよ」


「……しかし、その給仕を転ばせたのは君かもしれない!」


 どうしてしまわれたのでしょう。

 以前のアルト殿下は、聡明で穏やかな方でした。

 私が疲れていると、こっそり甘い菓子を差し入れてくれたこともあります。


 幼いころ、初めて参加した舞踏会で足が震えていた私に、「私も緊張している」と笑ってくださいました。

 あの優しさが偽物だったとは思いたくありません。

 けれど、今、私の前に立っている殿下は、事実を確かめようともせず、一人で作り上げた物語に酔っている。


 自分は虐げられた聖女を救う正義の王子。

 私は二人の愛を邪魔する悪役令嬢。

 その配役を崩す言葉は、最初から聞くつもりがないのでしょう。


「アルト殿下」


 私は扇子を閉じました。


「殿下が私を愛していないことは、よく分かりました」


「なに……?」


「ですから、理由を捏造する必要はございません。ミレイユ様を愛しているから私と別れたい。そうおっしゃればよろしかったのです」


「私は捏造などしていない!」


「でしたら、正式な調査を行いましょう。手紙の筆跡、封蝋の入手経路、当日の入退室記録。これだけの人々の前で公爵令嬢を断罪なさったのです。王家には、真相を明らかにする責任がございます」


 殿下は答えませんでした。

 美しい碧眼が、助けを求めるように周囲をさまよいます。

 けれど、ここにいるのは殿下が招いた観客です。


 誰も舞台へ上がって、台本を書き直してはくれません。


「……たとえ、嫌がらせの証拠が不十分だとしても」


 しばらくして、殿下は絞り出すように言いました。


「私が君を愛していないことに変わりはない。私は、ミレイユと共に生きていきたい」


 胸の奥が、針で刺されたように痛みました。

 そうですか。

 結局、それがすべてでしたのね。


 十年以上、婚約者として隣にいた私より、出会って半年の少女を選んだ。

 その事実だけなら、受け入れることもできたかもしれません。

 恋心は命令できるものではありませんもの。


 ですが、私を悪人に仕立て上げ、大勢の前で踏みつけなければ、真実の愛を証明できないというのなら。

 そんな愛に拍手を送る気はございません。


「承知いたしました」


 私はスカートの裾をつまみ、完璧なカーテシーを披露しました。


「ローゼンハイム公爵家へ、正式な書面をお送りくださいませ。婚約破棄に伴う補償と、虚偽の告発により傷つけられた我が家の名誉については、父から王家へお話しさせていただきます」


「待て!」


 背を向けた私を、殿下が呼び止めます。


「ミレイユに謝罪してから行け」


「何についての謝罪でしょうか」


「彼女を苦しめたことについてだ!」


 まだ続けますのね。


「被害者のいない罪について謝ることは、罪を創作した方への加担になります」


「ヴィクトリア!」


「それでは皆様、ごきげんよう」


 私は振り返りませんでした。

 大広間の巨大な扉が、ゆっくりと開きます。

 その向こうへ一歩踏み出した瞬間、背後から無数のささやき声が聞こえてきました。


 おそらく今夜中に、この婚約破棄の話は王都中へ広まるでしょう。

 しかし、人の噂は形を変えます。

 三日も経てば、私は嫉妬に狂った悪役令嬢。


 殿下は聖女を救った英雄。

 ミレイユ様は悲劇のヒロインになっているかもしれません。

 事実とは、往々にして物語より弱いものです。


 それならば。

 こちらも物語で戦うまでですわ。


◇◇◇


「お嬢様」


 馬車へ乗り込むと、侍女のノーラが心配そうにハンカチを差し出してきました。


「泣いておりませんわ」


「存じております」


「では、なぜハンカチを?」


「お嬢様、先ほどから笑っていらっしゃいますので。口元を隠した方がよろしいかと」


 私は自分の頬に触れました。

 確かに、口角が上がっています。


「仕方ありませんわ。最高の題材が、向こうから歩いてきたのですもの」


「……嫌な予感がいたします」


「ノーラ」


「はい」


「次の《女神の庭》まで、あと何日でしたかしら」


「十二日です」


 王都では三か月に一度、《女神の庭》と呼ばれる小規模な書物市が開かれます。

 小説、詩集、画集。

 大きな書店では扱ってもらえない個人制作の冊子を、作者自身が机に並べて売る催しです。


 この世界では「自主制作本」と呼ばれておりますが、私にとっては同人誌即売会そのもの。

 もちろん、参加しておりますわ。

 サークル名は《薔薇とインク壺》。


 作者名は、レディ・ブラック。

 正体を知っているのは、ノーラと印刷工房の老主人だけです。


「新刊を出します」


「おやめくださいませ」


「まだ内容も話しておりませんわ」


「お嬢様がその顔をしているときは、ろくな本を描きません」


「今回は恋愛喜劇です」


「誰がモデルですか」


「完璧な王子様と、無実の婚約者と、勝手に悲劇のヒロインにされた聖女様ですわ」


「完全に先ほどの一件ではありませんか!」


 ノーラが頭を抱えました。


「題名は――『完璧な王子様の、完璧ではない婚約破棄』」


「駄目です!」


「登場人物の名前は変えます」


「それでも駄目です!」


「舞台も外国にいたしますわ」


「誰が読んでも分かります!」


「最初のページに、『この物語は創作であり、実在する人物、王家、公爵家、聖女とは一切関係ございません』と明記します」


「余計に疑われます!」


 注文が多いですわね。


「もし殿下から抗議されたら、こう答えます。これは架空の愚かな王子を描いた物語です。まさか殿下は、ご自分がこの愚かな王子に似ているとお考えなのですか、と」


「性格が悪すぎます……」


「褒め言葉として受け取りますわ」


「褒めておりません!」


 馬車が公爵邸へ到着しました。

 私は自室へ入ると、宝石箱の奥に隠していた鍵を取り出します。

 机の一番下にある引き出しを開けると、中には紙の束、ペン、インク、過去に発行した冊子がぎっしりと詰まっていました。


 前世では日本という国で、同人作家をしていました。

 好きなことをして生きていたと言えば、聞こえはよいでしょう。

 ですが、現実は地味で、つらくて、締め切りばかり。


 描きたい話があっても、机の前に座るとなぜかスマートフォンを触ってしまう。

 やっと描き始めたと思えば、今度は自分の絵が下手に見える。

 反応がなければ落ち込み、厳しい感想が届けば三日ほど引きずる。


 それでも新刊を待ってくれている人がいるから、眠い目をこすってペンを握る。

 ずっと終わらない夏休みの宿題を、心に抱えながら生きていくようなものでした。

 もう一度、絵を描きたいと思ったのは、この世界が退屈だったから。


 舞踏会。

 お茶会。

 刺繍。


 娯楽の豊富な日本を知っている私には、刺激が足りませんでした。

 最初は一人で楽しむために描いていました。

 それを偶然ノーラに見つかり、「続きを読ませてください……BLとは良いものです!」と懇願されたのが、すべての始まりです。


 今では《薔薇とインク壺》の新刊を求め、開場前から列ができるほどになりました。

 公爵令嬢としての私を嫌う方もいるでしょう。

 けれど、レディ・ブラックの物語を待っている読者は、確かにいるのです。


「三十二ページなら、十二日で間に合いますわね」


「間に合うかどうかではなく、本当にお描きになるおつもりですか?」


「当然です」


「公爵様へ報告する方が先です」


「それはノーラに任せますわ」


「私に丸投げなさらないでください!」


 白い紙を机に置きます。

 ペン先をインクに浸すと、わずかに指が震えました。

 アルト殿下と過ごした十年を、簡単に忘れられるはずがありません。


 初めて名前を呼ばれた日。

 誕生日にもらった髪飾り。

 不安で眠れなかった夜に届いた、手紙。


 思い出すたび、胸の奥が痛みます。

 私だって、本当は悲しい。

 泣きたい。


 なぜ愛してくださらなかったのかと、殿下にすがってしまいたい。

 だからこそ、描くのです。

 この痛みを、殿下が用意した物語の中に閉じ込めてなるものですか。


 私の人生の配役を、他人に決めさせはしません。

 権力で噂を押さえつければ、私は都合の悪い事実を隠した悪女になる。

 剣を向ければ、反逆者になる。


 呪いをかければ、本当に悪役令嬢ですわ。

 けれど、一度広まった笑い話は、王子様にだって止められません。

 私は最初のひとコマに、大広間で胸を張る金髪の王子を描きました。


 その顔は無駄に美しく。

 その背後では、付き添いの聖女が困り果て。

 観客たちは、王子のあまりにも雑な断罪に首をかしげています。


 吹き出しに、最初の台詞を書き込みました。


『君との婚約を破棄する!』


「お嬢様」


 ノーラが、諦めたようにため息をつきます。


「表紙は二色刷りでよろしいですか?」


「ええ。初版は三百部」


「多すぎます」


「では、二百部で」


「……印刷工房には私から連絡しておきます」


「さすがノーラですわ」


 締め切りまで、あと十二日。

 ネーム、下描き、ペン入れ、仕上げ、表紙。

 時間はほとんどありません。


 ですが、怒りと悲しみと締め切りに追われた同人作家は、誰にも止められないのです。

 アルト殿下。

 婚約破棄、確かに承りました。


 ですので私の復讐は――同人誌で行わせていただきますわ。

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アルト殿下が廃嫡されたら元殿下が娼館で働く同人誌が発売されそう。
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