腐肉を運ぶ馬車は、夜の山へと煙る 〜少しの火しか使えない片付け屋の男と、喪服の氷令嬢〜
ゆるふわな異世界ということでひとつ。
湿った夜の空気が、古い荷馬車の隙間から容赦なく入り込んできた。
車輪が突起した木の根を踏みつけるたび、私の座る御者台まで鈍い衝撃が伝わった。
私の名はレン、二十三歳になる、この街の底辺で泥に塗れて生きるただの平民だ。
平民の分際で、指先から小さな火種を生み出す程度の奇妙な魔法が使えるため、まともな職には就けず、裏社会の「片付け屋」をしていた。
この世界において、平民が魔法を宿すことなど天文学的な確率であり、それゆえに私は常に忌み嫌われ、化物として扱われて生きてきたのだ。
かつて私は、その「少しだけ使える火」のせいで、生まれ育った故郷の村を追われた過去があった。
十歳の頃、乾燥した納屋の近くで不用意に魔力を暴発させ、村の共有倉庫を焼き尽くしてしまったのだ。
怒り狂った大人たちに泥水の中を引き回され、実の親からも「悪魔の落とし子」と罵られて背中を蹴り飛ばされた記憶は、今も消えない。
あの時、泥を啜りながら見上げた灰色の空と、自分の指先から燻る忌まわしい熱。
それ以来、私は魔法という力を呪いながら、同時にそれを使って死体を片付けることでしか飢えを凌げない、矛盾した日々を送っていた。
私の隣で手綱を握る少女は、夜の闇に同化するような漆黒のドレスを着ていた。
それは貴族の女が喪に服す際に纏う、最高級の、しかしひどく不吉な色合いの絹だった。
彼女の名はエレノア、この領地を支配する高名な伯爵家の令嬢であり、まだ十七歳になったばかりの少女だ。
しかし、私を見るその美しい瞳には、生きる者としての光が一切灯っていなかった。
何を見ても驚かず、何を失っても泣かない、どこか決定的に壊れてしまった人形のような少女。
彼女は平民の私など比べものにならないほど強大な、万物を凍らせる氷の魔法の使い手でもあった。
「ねえ、レン。あとどれくらいで、あの山に着くだろうか」
エレノアは前方をじっと見つめたまま、鈴を転がすような冷たい声で私に問いかけてきた。
「馬の足が持てば、あと二刻というところだ、お嬢。……冷え込んできたな」
私はそう答えながら、荷台に積まれた、何重もの麻袋に包まれた「巨大な死体」へ視線をやった。
平民の男と、貴族の令嬢が、夜の山へ死体を埋めに行く。
私と彼女には、昨日まで面識などほとんどなかった。
ただ、噂だけは聞いていた。
伯爵家に「異常なほど氷の魔法に長けた、氷の人形のような生娘がいる」という話を、裏社会の酒場で耳にしたことがあった程度だ。
客観的に見れば破滅以外の何物でもないこの奇妙な道行を、私たちは淡々と進めていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
事の始まりは、昨夜の遅い時間に、私のあばら家に彼女が突然現れたことだった。
彼女は、自分の背丈ほどもある重い麻袋を、氷の魔法で浮かせながら一人で運んできたのだ。
袋の隙間から覗く血濡れた衣服と、独特の鉄の匂いで、中身が人間の死体であることはすぐに分かった。
「これを、誰の目にも触れない深い山に埋めてほしい。手伝ってくれたら、私の全財産をあげる」
エレノアは、まるで明日の天気を話すような軽さで、私に莫大な金貨の袋を差し出してきた。
普通なら関わらずに逃げ出すところだったが、彼女の剥き出しの絶望と、私と同じ「魔法という呪い」を宿した瞳に、私は奇妙な親近感を覚えてしまったのだ。
夜の山は、人間に仇なす魔物たちの巣窟でもあった。
荷馬車が本格的な山道に入ると、暗闇の奥から、無数の赤い瞳がこちらをじっと監視しているのが分かった。
「グルル……」と地を這うような獣の唸り声が響き、影から巨大な「人喰い熊」が姿を現した。
私は慌てて懐から短剣を抜き、指先にわずかな魔力を集めて、刀身に小さな炎を纏わせた。
「お嬢、下がれ……!」
私が叫ぶより早く、エレノアは無造作に、ただ片手をそっと前方に突き出した。
その瞬間、夜の森が一瞬で白銀の世界へと変貌した。
彼女の手のひらから放たれた絶対零度の吹雪が、突進してきた巨獣を、咆哮した姿のまま凍りつかせたのだ。
「邪魔をしないで。私たちは、急いでいるの」
エレノアの声には、怒りも恐怖もなく、ただ底知れない冷徹さだけが満ちていた。
これが、選ばれた貴族だけが持つ本物の魔法の力だった。
私は自分の指先の小さな炎を恥じるように消し、彼女の圧倒的な才能と、それに反比例する心の欠落に、ただ圧倒されていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
深い森の奥、あらかじめ目星をつけていた樹齢数百年の大樹の根元に、私たちは馬車を止めた。
私は用意していたシャベルを手に取り、黙々と湿った黒い土を掘り進めた。
エレノアはその様子を、大樹の根に腰掛け、膝を抱えながらじっと見つめていた。
「レンは、どうして私を恐れない? 魔法が使える貴族の娘が、死体を運んでいるのよ」
「私には、お嬢がただの迷子に見える。それに、私も普通ではない平民だから、恐れる資格はない」
土を掘る私の手が、鈍い音を立てて木の根に当たった。
「迷子、か。そうね、私はずっと迷子だった。あの息をすることすら苦しい屋敷の中でも、ずっと」
エレノアは自嘲気味に微笑み、自分の白い指先を見つめた。
彼女が語る屋敷での生活は、きらびやかな地獄そのものだった。
伯爵家の跡取りとして、強大な魔法の才能を示すことだけを求められ、少しでも制御を誤れば、暗く冷たい地下室に何日も閉じ込められたという。
「お前は私の最高傑作の人形だ」と父親から毎日耳元で囁かれ、着る服も、食べるものも、すべてがその男の胸三寸で決められていたのだ。
彼女の言葉には、贅沢な環境への甘えではなく、自らの人生を完全に奪われた者の深い諦念が籠もっていた。
私は掘り終えた深い穴の縁に立ち、汗を拭いながら、荷台から麻袋を下ろす準備を始めた。
「さあ、お嬢。これを穴に入れよう。夜が明ける前に、すべてを終わらせなければ」
私とエレノアは、重い袋をゆっくりと、自分が掘った奈落の底へと滑り込ませた。
ドスン、と鈍い音がして、死体は冷たい土の底に収まった。
私はシャベルで土をかけようとしたが、その時、エレノアが「待って」と私の手を止めた。
彼女は凍りついた麻袋の紐を、震える指先でゆっくりと解き始めた。
「最後くらい、その顔をよく見ておかないと。私が、本当に自由になれたのかを確かめるために」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
解かれた麻袋の隙間から、月光に照らされて現れたのは、酷く見覚えのある厳格な男の顔だった。
この国の重鎮であり、かつて私の故郷の村から重税を搾り取り、多くの平民を容赦なく処刑してきた、あの高慢な伯爵の顔。
そう、この死体の正体は、エレノアの本当の父親だったのだ。
私は驚きで息を呑んだが、エレノアはただ、冷え切った父親の頬をそっと撫でていた。
「お父様。貴方は最期まで、私を自分の人形だと信じて疑わなかったわね」
彼女の声は、驚くほど穏やかで、しかし同時に、救いようのない狂気に満ちていた。
「私が貴方の食事に、少しずつ毒を混ぜていたことすら、貴方は気づかなかった。……哀れな人」
エレノアは父親を殺害し、その罪を隠蔽するために、平民の私を雇ってここまで来たのだ。
父親から与えられた強大な魔法の力で、その父親の命を奪い、人形としての人生に自ら終止符を打った少女。
彼女が壊れていたのは、生まれつきではなく、その血脈の檻が彼女の心を粉々に砕いていたからだった。
「レン。私を軽蔑する? 父親を殺した、悪魔の娘だと」
エレノアは、私を見上げて、初めて縋るような哀しい瞳を向けた。
私は静かに首を振り、シャベルを握り直して、父親の顔に無造作に土をかけ始めた。
「軽蔑などしない。私はただの片付け屋だ。お嬢が自由になれたのなら、この死体はただの泥と同じだ」
私の言葉に、エレノアの目から、初めて一筋の涙が溢れ落ちた。
それは氷のように冷たい涙ではなく、彼女の中にまだ、人間の温かな心が残っている証拠のようだった。
私たちは二人で、夜明け前の暗闇の中、伯爵の体に冷たい土を何度も、何度も被せ続けた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
すべての土を戻し終え、元の地面と区別がつかなくなった頃、東の空が薄紫色の朝焼けに染まり始めた。
エレノアの着ていた漆黒のドレスは、泥と土で真っ黒に汚れていた。
しかし、その顔は、昨夜私の家を訪れた時とは比べものにならないほど、晴れやかで美しく見えた。
「ありがとう、レン。貴方のおかげで、私はようやく、自分の足で地面に立てた気がする」
彼女は泥だらけの手で、私の頬にそっと触れた。
私の指先から、ほんの少しだけ、小さな温かな火種を灯して、彼女の冷えた手を温めてやった。
「これからどうする、お嬢。屋敷に戻れば、伯爵の失踪で大騒ぎになる」
「戻らないわ。私はもう、ただのエレノア。伯爵令嬢ではない、魔法が少し使えるだけの、名もない女の子よ」
彼女は楽しそうに笑い、汚れたドレスの裾を翻して、馬車へと歩き出した。
国を揺るがすような大犯罪を犯した二人が、朝日に照らされながら、静かに山を降りていく。
世界は相変わらず残酷で、魔法や魔物がのさばる理不尽な場所だったが、私たちの前には、誰も決めていない自由な道が広がっていた。
平民の男と、貴族の娘。
私たちはこれから、追っ手から逃げ続け、世界の果てまで歩んでいくことになるのだろう。
それでも、私の隣で初めて少女らしい寝息を立て始めた彼女を見つめながら、私はこの選択を絶対に後悔しないと誓った。
荷馬車が立てるガタゴトという音だけが、朝霧の立ち込める静かな街道に、いつまでも、いつまでも心地よく響き渡っていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
あれから私たちは、王国の国境を越え、魔物の徘徊する荒野をひたすら南へと下っていった。
予想通り、王都では有力貴族である伯爵の突然の失踪と、その愛娘の誘拐で大規模な捜索が行われた。
しかし、誰も平民の「片付け屋」の馬車に、偉大なる伯爵の死体が積まれていたとは夢にも思わなかったのだろう。
私たちは手に入れた金貨の半分を旅の路銀に変え、残りは追っ手を撒くための偽装工作に使い果たした。
今ではエレノアも、あの黒いドレスを捨て、どこにでもいる平民の少女のような麻の衣服を纏っている。
街の酒場に立ち寄るたび、アステリア王国が伯爵という重鎮を失って政治的に混乱しているという噂が耳に入った。
かつて多くの平民を処刑してきた男の死は、巡り巡って国そのものの歯車を狂わせ始めていたのだ。
しかし、私たちはそのニュースを聞いても、まるでおとぎ話でも聴くかのように遠い目をするだけだった。
「ねえ、レン。今日のスープ、少し塩が足りないわ」
安宿の片隅で、エレノアはスプーンを口に運びながら、私に小さく不満を漏らした。
「お嬢、これでもこの宿の精一杯の料理だ。不満なら、私の火の魔法で少し煮詰めようか」
「ふふ、そうね。貴方のその頼りない火、結構重宝しているわよ」
彼女はそう言って、前髪をかき上げながら、悪戯っぽく笑った。
その表情には、かつて父親の遺体を前にしていた時の狂気や、凍りついたような諦念はもうどこにもなかった。
彼女は自分の意志でスープの味を決め、自分の足で行き先を決め、私と共に生きることを選んでいる。
父親をあの深い山に埋めたあの日、彼女は確かに、自らの手で呪われた過去を終わらせたのだ。
私たちはこれからも、身分を偽り、世界を欺きながら、終わりなき逃避行を続けていく。
もしいつか、あの山で見つかった死体の件が私たちに追いつき、断罪される日が来るとしても。
「レン、明日はもっと遠い国へ行こう。まだ見ぬ魔物がたくさんいる、面白い場所へ」
「御意のままに、私のお嬢」
私は彼女の手を取り、私の小さな火種で、その細い指先を優しく温めた。
世界は相変わらず冷酷だったが、私たちの前には、二人だけの自由な夜明けがどこまでも広がっていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
だが、逃亡の旅は決して平坦なものではなかった。
アステリア王国の混乱は、私たちの想像を遥かに超えて深刻化していた。
伯爵が担っていた軍事と財政の要が突如として消失したことで、宮廷内では派閥争いが激化し、国境の警備は実質的に崩壊しつつあったのだ。
さらに悪いことに、国を挙げた捜索隊だけでなく、血気盛んな若手貴族たちが私設の「伯爵令嬢救出隊」を組織し、各地に放たれていた。
彼らは、私たちが伯爵を殺害したことなど微塵も気づいておらず、ただ「不埒な平民に拉致された幼気な令嬢」を取り戻し、手柄を立てようと躍起になっていた。
ある日、国境近くの寂れた宿場町で、私たちはその追っ手の網に捕まりそうになった。
馬の足を休めていたところを、きらびやかな甲冑を着た騎士の一団に囲まれたのだ。
彼らは私を不審者と決めつけ、麻の服を着たエレノアに「お怪我はありませんか、エレノア様!」と声をかけた。
緊迫した空気が流れ、私の手が自然と懐の短剣へと伸びる。
だが、エレノアは私の前に静かに立ち塞がり、見事な平民の娘の演技で追っ手を煙に巻いたのだ。
「人違いでございます、騎士様方。私は生まれも育ちもこの土地の農婦にすぎません。伯爵令嬢様などという高貴なお方、お顔も存じ上げませんわ」
エレノアは、かつて屋敷で叩き込まれた完璧な淑女のマナーを完全に封印し、少し訛った調子でそう言いのけた。
騎士たちは首を傾げ、不満そうにしながらも、泥に汚れた彼女の姿を見て、本物の令嬢であるはずがないと判断し、去っていった。
遠ざかる蹄の音を聴きながら、私は大きく息を吐き出し、彼女の肩に手を置いた。
「お嬢、冷や冷やしたぞ。あのまま戦うことになれば、いくらお嬢の氷魔法でも無事では済まなかった」
エレノアは振り返り、悪戯が成功した子供のような笑顔を見せた。
「彼らは私を『守られるべき人形』としてしか見ていなかった。だから、自分の足で泥を踏んでいる私に気づけなかったのよ」
その言葉には、かつて彼女を縛り付けていた王国の身分制度への、痛烈な皮肉が込められていた。
国がどれほど混乱しようが、追っ手がどれほど執拗に迫ろうが、彼らは私たちの「真実」には決して辿り着けない。
なぜなら、彼らの知るエレノアはあの夜、深い山の底に父親と共に埋められ、もうこの世には存在しないのだから。
私たちは再び荷馬車を走らせ、追っ手の届かないさらに南の地へと進路を取った。
世界は混沌に満ち、理不尽な魔法や恐ろしい魔物が今も人々を脅かしているが、私たちの胸には、奇妙な高揚感が満ちていた。
「ねえ、レン。次はどんな街に行こうか」
「お嬢が行きたい場所なら、地の果てまで付き合うさ」
朝霧を切り裂いて進む馬車の揺れの中で、私は小さな火種を手のひらに転がし、私たちの行く手を微かに照らし出した。
どんなに遠くへ逃げようとも、私のこの小さな火とお嬢の冷たい氷があれば、私たちはどこでだって生きていけると確信していた。
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