校正者のざれごと――本、そして言葉の賞味期限
私は、フリーランスの校正者をしている。
先日、パウンドケーキを作ろうと、以前沖縄旅行で買ってきた黒糖を棚から取り出した。すると、それを見ていた夫が聞いてきた。
「それ、だいぶ前に買ったやつだけど、賞味期限大丈夫なの?」
すかさず「あのね、砂糖って、賞味期限ないんだよ」と返す。管理栄養士や調理師の本の校正で確認したのだ。「ふうん」夫は曖昧に答える。
そのあと、念のために黒糖のパッケージの裏を確認してみた。すると、そこには賞味期限の表示が。あれ? すぐにネットで調べる。すると、砂糖には基本的に賞味期限はないのだが、黒糖は水分含有量が多いのでカビが生えることがあり、賞味期限が設定されているとあった。そうだったのか。危ない危ない。こういうことはちゃんと確認しないと。
賞味期限の表示の義務のない食品については、東京都保健医療局のHPにこう列挙されている。「1 でん粉 2 チューインガム 3 冷菓 4 砂糖 5 アイスクリーム類 6 食塩及びうま味調味料 7 酒類 8 飲料水及び清涼飲料水 9 氷」理由は、品質の変化が極めて少ないこと。念のため冷凍庫のなかのアイスクリームを確認したが、やはり賞味期限の表示はなし。
では、ここで唐突ですが、「言葉」には賞味期限はある?
経済関係の本の校正では、カタカナ語の文字統一についても指示されることが多い。たとえば「サーバー」と「サーバ」、「コンピューター」と「コンピュータ」が混在していたらどちらかに揃えるようエンピツを入れる。私の感覚だと、この最後の伸ばしぼう(オンビキ、という)はないことが多い。ところが最近、こんな記事を見かけた。
――伸ばさないカタカナ語は「おじさん表記」。
以前、JIS規格では「2音の用語は長音符号を付け、3音以上の用語の場合は長音符号を省く」というルールがあった。「プリンタ」「エディタ」などがそうだ。ところが、2013年、文化庁は「英語の語末の‐er、‐or、‐arなどに当たるものは、原則としてア列の長音とし長音符号『ー』を用いて書き表す」というルールを発表。さらに、2019年にJISは先ほどの「3音以上は長音省略」というルールを削除した。これよって、オンビキを入れるのがスタンダードになり、省略するのは「おじさん表記」である、となったのだ。
カタカナ語のオンビキにこんな変遷があったというのは興味深い。時代の流れ、というかこんなルール変更ひとつで言葉も変わっていくんだな。そして、それにつねに振り回される校正者。いや、でも文化庁のHPには「ただし、慣用に応じて『ー』を省くことができる」ともある。この「おじさん表記」という言葉は「時代遅れ」と同義に使われていると思われるが、「コンピュータ」と書いたらそれだけで「時代遅れ」とされてしまうというのも何だかちょっともやもやする。
一方、電話の「ダイヤルを回す」、テレビの「チャンネルを回す」のような表現は、やはり賞味期限切れ、死語ということになるのだろうか。広辞苑(第5版)で「ダイヤル」を引くと、「電話機の円形文字盤。また、(それを回して)電話をかけること」とあった。 ダイヤル式の電話では、番号の穴に指を入れて、一つひとつ回していく。すべての番号を回すのに時間がかかる。小林明子さんの『恋におちて―Fall in love―』のなかの「ダイヤル回して 手を止めた」のような揺れ動く心の葛藤も、携帯電話が普及して1回触れるだけでつながる現代ではすでにありえないのかもしれない。
では、本には賞味期限はあるか。
私がよく校正を担当している資格試験の本は、毎年のように改訂される。それは、最新の法改正や制度改正を反映させるためだ。過去問集なども、問題は変わっていないが解答解説が法改正によって変わることもあるので、毎年確認している。つまり、1年前の本はもう「賞味期限切れ」となってしまうのだ。フリマサイトなどで古い資格試験の本が販売されているのを見かけるが、これから受験しようと思っている方はぜひ最新刊を買ってください(その売り上げの一部は校正者に還元されています)。
もちろん、賞味期限のない本もたくさんある。ここにこうして文章を書くようになって、昔自分が読んでいた本を棚の奥から引っ張り出して開くようになった(読む、ではなく開くとしているところが我ながら情けない)。そのひとつが、灰谷健次郎さんの『兎の眼』。
新任の小谷先生の悩みは、クラスの鉄三が口をきかないことだ。ある日、鉄三はみんなで大事に飼っていたトノサマガエルを殺してしまった。先生は考え込む。鉄三はいったい何を憎んだのか。……鉄三はハエを飼っていた。カエルの餌であるハエは鉄三の大切なペットだったのだ。
新任の女性教師が、子どもとまっすぐに向き合い、知らない世界に飛び込んで自身も成長していく話だ。表紙も傷み、ページも変色しているが、少し文字を目で拾うだけですぐに内容が蘇る。そのくらい、心に残る話だった。その世界は色褪せることはない。
黒糖を使ったパウンドケーキは美味しく焼き上がった。手作りのお菓子の賞味期限はどのくらい? 洋酒も使っているし、1週間くらいは持つのかしら。いや、そもそも、その前になくなるだろう。甘いものは脳へのご褒美。要するに、自分に甘いんですよね。




