16話 記憶
リウが目を覚ました場所は、見覚えのある客間だった。
レンガ作りの暖炉、壁に掛けられている雪の積もった山の風景画、薄絹をまとった豊満な女性が肩に壺を抱えている石膏像。子どものころ、六つ離れた兄フレデリックと兄の幼馴染のジェシカと三人でかくれんぼをしたときに、よくここに隠れて遊んでいた。
「ああ、思い出した。僕の名前はミハイル、ミハイル・バルケル。この町の領主の息子だ・・・」
自然と涙が出てきた。ベッドで横になりながら、涙がとめどなく流れてくる。嬉し涙などではない。思い出さなければ良かったという後悔からくる涙だった。
記憶の中にあった「魔物の呪いにかかれば、魔物の森に捨てに行け」と指図していたのはリウの父親、バルケル伯爵だった。
リウが幼かった頃、伯爵領内で魔物の呪いにかかった平民がいた。それを知らせに来たのは、町の保安係の男だった。
「伯爵様、町民が一人、魔物の呪いにかかりました。今は一日目ですが、おそらく三日以内には亡くなるかと・・・」
「はあ、まったく、魔物の呪いなど縁起が悪い。町の者も関わりたくないだろう。死んだらさっさと魔物の森に捨てに行けと言っておけ。」
「承知いたしました。」
保安係が去ると、伯爵はそばにいたリウに視線を移した。
「ミハイル、お前は決して魔物の呪いなんかにかかるんじゃないぞ。あんなものにかかったら、家門の恥だ。わかったな。」
当時五歳だったリウは、父の言葉の意味を完全に理解していたわけではなかったが、魔物の呪いにかかることはとても恐ろしいことで、父親に恥をかかせることにもなるのだと思った。
それにも関わらず、リウは九つの年に魔物の呪いにかかってしまったのだ。
病床で意識が朧気な中で苦しんでいる最中、父が部屋に入ってきた。目を開けることはできなかったが、声が聞こえてきたので、それが父だと分かった。
「はあ、まったく・・・。お前はなぜ、魔物の呪いなんぞにかかるのだ。伯爵家の恥さらしが・・・」
それだけ言って父は出て行った。
リウがミウに助けられてから、名前も家族も思い出せなかったのは、思い出したくなかったからだったのだと、今にしてわかった。
心の中で、あの父親の言葉の呪縛から逃れられないでいた。だから、思い出そうとすると、頭が痛くなって諦めてしまったのだ。
「ああ、思い出したくなかったな・・・。こんな家に、帰りたくなかった・・・」
リウは、ぼそりと呟いた。
薬屋で急に頭が割れるように痛くなって・・・、そこから先は覚えていない。おそらくアルメリアが家の者に連絡してここまで運んでくれたのだろう。
いったい、どれくらい寝ていたんだ?
時計を見ると、針は三時を指していた。
四時間も眠っていたのか・・・。
早くミウに薬を届けなければ・・・。
買った薬はどこにあるんだ?
リウが半身を起こし、涙で濡れた頬を手で拭いながら部屋の中を見回していると、ガチャリとドアが開いた。入ってきたのはバルケル伯爵夫人、リウの母親マリエッタである。
「まあ、ミハイル、目を覚ましたのね。」
目を大きく見開き、ベッドに駆け寄って、ミハイルの手をしっかと握る。
「良かった。あなたが生きていてくれて、本当に良かった・・・。」
マリエッタの目からぼろぼろと涙が流れ落ちる。
記憶にあるマリエッタは、いつも輝く銀髪をきれいに結い上げ、優しく息子を見つめる瞳は青かった。
けれど、今、ミハイルの目の前で泣いているマリエッタは、結い上げた髪が乱れ、目は赤く腫れている。おそらく、ずっと泣いていたのだろう。
「こんな客室で寝させてごめんなさい。あなたのお部屋、そのままにしておきたかったんだけど・・・。」
申し訳なさそうに言うマリエッタを、リウは少し冷めた目で見ていた。
「母上、どうぞ椅子にお座りください。」
リウは、椅子に座ったマリエッタと面を向かい合わせて視線を合わせた。
「ミハイル、こんなに大きくなって・・・、そして、相変わらず優しいのね。あなたが戻ってきてくれて、本当に嬉しくて嬉しくて・・・」
マリエッタが感涙にむせび泣いている最中であったが、ドアの向こうから使用人の声が聞こえてきた。
「奥様、ご主人様がお呼びです。」
その声にマリエッタは一瞬ビクッとした。
「わかりました。今すぐに行きます。ミハイル、また、後でね。」
マリエッタは、名残惜しそうに客室から出て行った。
マリエッタが出て行ったのを確認してから、リウは大きくため息をついた。
はあ・・・、母上は何も変わっていない。
僕たち兄弟に対してとても優しい。でも、それだけだ。
なんでも父上の言いなりで、決して父上の横暴から僕たちを守ってくれることはなかった。
きっと僕の部屋も残しておきたいとは思っていても、反対することもなく、父上の言いなりになったのだろう。
マリエッタが出て行ってからすぐに、兄フレデリックが現れた。
フレデリックはリウよりも六つ年上で、今は二十四歳である。母と同じ銀髪で父と同じ紺碧の瞳の端正なその顔は、決してリウの生還を心から喜んでいるようには見えなかった。
部屋に入ってきても、椅子に座らず立ったままリウを見下ろしている。
「ミハイル、お前、生きていたんだな。生きていたなら、どうしてすぐに戻ってこなかったんだ?」
その口調には怒りが込められているように思えた。
「兄上、ごめんなさい。僕、名前も家族も思い出せなくて、記憶喪失になっていたんだ。」
「だからって、戻ってこない理由にはならないだろう? 町に来れば、きっと誰かが気が付いて屋敷まで連れてきてくれたはずだ。」
兄上・・・、どうしてそんなに怒っているの?
リウは優しかったフレデリックが、まるで敵意をむき出しにしているような雰囲気に、その理由がわからなかった。
「お前が戻って来なかったから・・・、僕は・・・」
そこまで言うと、フレデリックは両手で顔を覆った。
「兄上・・・?」
「ああ、すまなかった。お前に当たってしまった。お前が戻ってきたところで、きっと何も変わらなかっただろうに・・・。すまない。僕は失礼する。」
フレデリックはスッと背を向けて部屋を出ようとしたが、背を向けたまま、リウに言った。
「ミハイル、つい口調が荒くなってしまったが、僕はお前が生きていてくれたことは嬉しいと思っている。」
フレデリックが出て行った後、リウは、頭を抱えた。
いったい自分がいない間に何があったのだ?
聞きたくても、とても聞ける雰囲気ではなかった。フレデリックが顔を両手で覆ったとき、泣いているように見えた。背を向けたのも、泣いている顔を見られたくなかったからだろう。
いったい、兄に何があったというのだ・・・?
リウは、兄と仲良く遊んでいた遠い昔に思いを馳せた。




