ベンチと魔法陣と新生活
◆1 追い出し(現代、深夜の公園)
「は? 何それ」 自分でも思ったより間抜けな声が出た。 マンションの扉がバタンと閉まる音がまだ耳に残っていて、財布とスマホだけ握りしめて俺――日向蓮は、茫然と夜の廊下に立ち尽くしていた。
ついさっきまで住んでいた部屋は、今やただの他人の生活空間になってしまった。
一ヶ月前からギクシャクしていたのは分かってた。俺が無職で、でも家事をしてれば大丈夫だと思ってて、だけどそれも彼女にとっては“利用されてる”って感じてたのかもしれない。
「っていうか、これ、完全にヒモだな俺……」
言って、自分で苦笑した。
家事と甘い言葉で繋いでいた関係の糸は、どうやらさっき、ぷっつりと切れてしまったらしい。
重たい足を引きずって向かったのは、近所の小さな公園。住宅街の奥にひっそりとあるこの場所には、夜中に人なんか来やしない。 街灯が半分壊れているせいで薄暗く、木々の影が地面に揺れている。
ブランコの鎖が風でかすかに鳴る音だけが響いていた。
「まあ、今日はもう……寝よ」
覚悟を決めて、ベンチに体を倒した。
夏の終わりの夜風は思ったより冷たく、シャツ一枚の背中に冷気が染みる。
目を閉じた瞬間、まぶたの裏に彼女の怒った顔が浮かんで、胸がちくりと痛んだ。
――やり直せるなら、ちゃんと働いてみようかとか、思ってたんだけどな。
けど、そのまま眠りに落ちた瞬間、世界は突然、ぐらりと歪んだ。
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◆2 召喚(魔術塔の一室・少年視点)
「……発動」
薄暗い部屋の中央に描かれた魔法陣が、淡く青白い光を灯した。 細い指先が触れた瞬間、緻密な線が光を帯びていく。空気が震え、わずかに風が巻き起こる。塔の一室にひとりきりの少年――レアリア=エル=フロリアスは、少しだけ緊張した面持ちで立っていた。
その瞳は澄んだ碧色。
薄緑の長い髪を後ろで編み、魔術師のローブのフードを深く被っている。左の耳には鹿のような耳がぴょこりと覗いているが、慎重に隠していた。
「ゴーレムでも、簡易精霊でもいい……ちゃんと、出てきてくれたら……」
彼が今試しているのは「従者召喚術」――魔術塔にある古い書物に記されていた、精霊や使い魔を自動で呼び出す禁術に近い魔法。
塔での孤独な研究生活が長引き、頻繁に心配して来訪する騎士・ゼクトに申し訳なさを感じていた彼は、自立の一歩としてこの魔術を選んだ。
ところが、魔法陣は突然、想定外の挙動を見せた。
――風が巻き起こる。閃光が奔る。少年は思わず目を細めた。
そして、ぽん、と音を立てて、誰かが魔法陣の中心に落ちてきた。
「……あいててて……どこ、ここ……?」 「――えっ」
フードの奥の瞳が、驚愕に染まった。
召喚されたのは、筋肉質でも無機質でもない、ごく普通の青年だった。
伸びた髪にくたびれたシャツ、手にはコンビニの袋。どう見ても“従者”らしい見た目ではない。
「……あれ? 君……人間?」 「え? ……あれ? 君、小さ……子供? あれ? 耳……あれ?」
互いの脳内に「?」が乱舞する中、ヒモくんは言った。
「ここ....どこだ?」
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白い閃光と眩い風のうねりの中から――オレは突然、この場所に放り出された。
「っ……え? な、なにこれ……どこだ……?」
床には光る線が幾重にも重なって、幾何学的な模様を描いている。ぐらりと視界が揺れて、思わず膝をついた。
体が重い。頭がぼんやりする。心臓の鼓動が妙に早い。
そして、周囲には見たことのない石の壁と、無数の本と、香草のようなにおい――
「……っあれ……? 夢か……?」
「……っ! ひ、人間!? なんで――!? うそ、うそっ……! 精霊じゃないの……!?」
甲高い、少年の声が響いた。
顔を上げると、目の前に立っていたのは長いフードをかぶった、小柄な銀髪の少年。片手には本、もう片方は魔力を帯びて震えている。
「おい……ここ、どこ……? オレ……なにが……」
「ちょ、近づかないで! ……だ、誰……? あれ……? 魔法陣、従者召喚のはずなのに……! なんで、人間が……?」
少年は慌てて書物をめくり、背中越しに魔法陣を覗き込む。
その様子から、彼自身もこの状況を把握できていないことが伝わってきた。
オレも、言葉が出てこなかった。頭がついていかない。
目の前が、まるで現実味を帯びていない。
(オレ、何され……いや、何が……起きたんだ……?)
「ちょ、ちょっとそこにいて、動かないでね……! 変なことしないで、ほんとに、お願いだから!」
その必死な言葉に、オレはただ呆然と頷いた。
(マジでどうなってんだ……これ)
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しばらくして――
リィトが本を抱えたまま、少し怯えながらも状況を整理していた。
「……やっぱり、従者召喚魔法で……人間が出てきた、みたい……。これ、初めて……」
「召喚……? それ、オレが?」
「うん……。君、元の世界に帰れる?」
「……わかんない……」
自分でも、声がひどく震えているのが分かった。
リィトはしばらく黙っていたが、ふっと溜息をつくと、おずおずと告げた。
「……えっと……とにかく、今日は帰って。ここ、研究用の塔で……勝手に人を住まわせるの、ダメだから」
「ま、待てって……! 帰れって言われても、オレ、どこに……」
「……じゃあ、塔の外にある木陰のベンチとか……」
「いやいやいやいや!!」
反射的に叫んだ。
混乱の中でも、直感が叫んでる。ここで放り出されたら、オレ、終わる。
「……な、なんだよもう……オレ、どうすればいいんだよ……っ」
唇が震えて、どうにか立ち上がる。少年がまた警戒して一歩引いたのを見て、オレはぐっと拳を握った。
「……せめてさ、役に立たせてくれ。掃除でも料理でも、何でもやるから。オレ……得意なんだ、そういうの。だから、少しだけでも……ここにいさせてくれないか」
その言葉に、リィトの瞳が少し揺れた。
「……家事、できるの?」
「マジで任せてくれ。オレ、家じゃそれしかしてなかったから。掃除も洗濯も、食事の準備も、得意だ」
「……えーっと……じゃあ……」
少年はまだ迷っていた。でも、その迷いの中に、微かな期待があったように見えた。
「じゃあ……今日の晩ごはん……お願い、してもいい……?」
「任せろ。美味いもん、作ってやるよ」
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