第1章 カフェ時游館(8)
それから既に8年が経っていた。越崎は研修医を経て、昨年このクリニックを開設した。一族みな医者の嫡男。小児内科の親の病院は弟が継ぐらしい。自分はあの忙しさからは逃れたいと、端から継ぐ気はなかったようだ。それでもこんな立派なクリニックを駅近に構えてもらったのだから、十分すぎるだろう。
「もういいぞ、入ってこい」
診察室から越崎の声がかかった。彼の『研究素材』としての役割は、ひと月もかからず終わってしまった。そんなつまらないことをするよりも、友人になったほうが早いと思ったかどうかはわからないが、お互いにとって数少ない友人の一人であり、今もまだその関係は続いている。
「どうだった」
「ああ、今から説明するから、二人ともそこのソファーに座って」
二人並んでソファーに座ると、キャスターのついた自分の椅子をそのままずらしてテーブルの前にやってきた。テーブルには水のペットボトルが人数分置かれ、航留は迷わず手を伸ばしてキャップを開けた。
「まず、全身の状態だけど……」
越崎はタブレットの画面に目を落とす。
「細かいかすり傷と軽い打撲が数か所。森の中を歩いてるうちに擦りむいたのかな。いずれも大したことはないようだ。問題は側頭部の打撲。たんこぶになってるやつ」
少し上目遣いをして、二人の顔に視線を送った。二人とも何も言わずに頷く。それは脱がすまでもなく予想できたことだ。まあ、医者としてはそんなわけにはいかないだろうけど。
「野波君は、このこぶが出来たわけを覚えていない。これが記憶障害の原因とみるのがふつうだな。それだけが要因とは断定できないけど」
越崎は、詳しいことは大きな病院での精密検査が必要だと続けた。ヒアリングからは、やはり潜在的な記憶はあるが、自分が何者かが思い出せないとのことだった。
「難しい漢字が読めないのは元からなのか、記憶障害のためかはわからないけどね」
と、越崎はそこで笑ってみせた。隣の零は少し恥ずかしそうにうつむいた。
「でも、数学は問題なかった。理系の大学生だったかもね。年齢は二十歳くらいかなあと思うけど」
彼の服装や容姿から、社会人には見えない。高校生であれば大人び過ぎているので、大学生というのは間違いないところかと航留も思う。
「えっと、野波君。あっちの部屋で動画を観てくれないかな。それで、ぴんと来ることとかあったら教えてほしい。このメモ用紙に書いて」
「はい……」
診察室の奥に個室がある。航留は知らなかったが、モニターがあるところをみると、越崎が言うように動画やDVDを観る部屋なのかもしれない。催眠療法なんかもやってると聞いているし。しかし、今はそれだけでないのはわかっていた。越崎は零のいないところで航留に話をしたいのだ。
「で、航留、おまえどうするんだ、これから」
零がヘッドホンをしてモニターの前の椅子に座る姿が見える。それを確認してからすぐ、越崎が膝に肘を乗せ、前傾姿勢で尋ねてきた。
「どうするって」
「当然、彼を探してる人もいるわけだし、身元を表すものがないんだから、すぐにも警察に連絡するべきだ。私からしてやってもいい。医者として当然のことだからな」
「警察か……」
それが普通であるのが航留にもわかっていた。警察なら、捜索願いが出ていればすぐにも彼が誰かわかるだろうし、家族の元にも帰れる。
――――けれど、記憶が戻らないままでそこに返されるのってどうなんだろう。どんな環境だったかわからないし。転んで頭を打ったのならまだしも、誰か、身内の誰かに殴られたのかもしれない。どうやってあの山の中に来たのかも不明だし。
もういい大人なんだから、そんなことで迷う話でもないのだが、今朝、彼が『警察』の言葉を聞いた時の反応が航留は気になっていた。怯えた表情で航留を見つめていた。