第1章 カフェ時游館(7)
学生時代、航留が越崎と知り合ったのは偶然ではない。1個上の越崎は医学部、航留は工学部でキャンパスから違う。どこの大学でもそうかもしれないが、医学部は大学のなかでも別格の扱いを受けていた。
だが二人が出会ったのは、どちらの学部でもない講義でだった。航留が一年生の秋。気まぐれに心理学(正確には人間科学科)の聴講をした。その講義のテーマに興味があったからだ。
『性指向と嗜好のあいまいさ』。
越崎は、精神科医も彼のイメージしている職業の一つだったため、定期的に聴講していた。人間科学科は学科生そのものが少ない。聴講生も最初のうちは物珍しさもあり人が多いが、秋にはげっそり少なくなってしまう。みな、聴いてみればさほど面白くないのだ。それがこのテーマに限ってやってきた男に、越崎が興味を抱いても不思議はなかった。
『ねえ、君。良かったら僕の研究素材にならないか? もちろんタダとは言わない』
それが講義終了後、階段教室から出ようとする航留にかけた言葉だった。大学2年生の越崎は、今よりも気持ちふっくらとしていたが、それでもスリムな体にブランドの濃紺シャツとテーパードパンツといった、いかにも裕福なお坊ちゃま風情だった。
銀縁眼鏡の蔓を人差し指で上げる仕草も今と同じ、涼やかな目に薄めの唇が薄情そうに見えた。越崎が柔らかな笑みを身に着けたのは、職業上の必要性ができてからのことだ。
『悪いが俺は、金に困ってない』
金持ち自慢に対抗したいわけではないが、航留を金で釣っても仕方ない。金に不自由しない人生の、どこに達成感や楽しみを見出せばいいのか、なんて贅沢過ぎる悩みを本気で抱えていた男なのだから。
『え? そうなの。まあ貧乏学生には見えないけど』
航留はあまりファッションには興味がなかった。体は鍛えていたのでそれが強調されない程度のTシャツにデニム、シルバーネックレスを付けていた。越崎は細めのチェーンにぶら下がる羽のペンダントトップを眺めた。
『じゃあ、君は知りたくない? どうして君が……普通の人と違うのか。生殖の理念から外れた性指向を持つのか』
そのセリフに航留は唇を歪める。あからさまに驚いた表情ではないが、びくりと肩が揺れた。
――――なぜわかったのか。いや、この講義を物珍しそうに聴きに来た俺にカマをかけているだけかもしれない。
『怖いことするわけじゃない。君のことを聞かせてほしいんだ。ヒヤリングだけでも大丈夫。あ、僕はゲイじゃないから』
黙ったまま突っ立っていた航留に越崎は勝手に話を進めた。はじめから、そんな人体実験に付き合うつもりはなかったし、興味本位で自分のことを聞かれてたまるものか。そう考えていた。
だが、なぜか航留は越崎という男に興味を持った。『ゲイじゃない』の一言に、ノンケに何がわかると思ったのかもしれない。結局、航留は越崎の申し出を承諾した。