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第1章 カフェ時游館(5)


「つまり、君は名前も素性も一切、何も覚えていないということか」


 青年は店に来てすぐ洗面所へと向かい、洗顔も済ませたのか髪の先を濡らしたまま出てきた。汚れが取れると肌は艶々だし、確認するまでもなくアイドル顔負けの美男子だ。


「鏡で顔見てきたんですが……」


 だが青年はその美しい顔を歪め、泣きそうな声を出した。


「見慣れたものなのか、そうでないのか……わからなくて」


 自分の顔を見ても、自分が何者かわからない。どころか、違和感まではなくても、見覚えがあるでもない、どこかふわふわした印象だったと続けた。


「あの……例えば、ここがカフェで、今いただいてるのが珈琲……しかもすごく美味しい珈琲で、これがバターたっぷりのトーストだってわかるんです。なのに、自分の名前もどうしてここにいるのかも全く思い出せないんです」


 航留の問いに、男はそう答えた。カフェには真紀と香苗、望月。それと会社を半休にした加納がカウンターのいつもの場所にいた。青年と航留は入り口そばの四人掛けのテーブルについている。青年は航留が用意したモーニングを早々に食べ終え、二枚目のトーストに手をつけようとしているところだった。


「どこか痛いところはない? 怪我してるところとか」

「あ、そういえば……いたっ」


 問われて青年は側頭部のあたりに手を触れ、途端に電気が走ったようにびくんと跳ね上がった。


「どうした? ちょっと触るね」


 航留はゆっくりと手を伸ばすと、彼が触ったあたりを掌で撫ぜてみた。


「ああ。たんこぶだな。真紀ちゃん、冷たいタオルを用意して」

「あ、はい。今すぐ」


 使っていないおしぼり用のタオルを引き出しから引っ張り出すと、真紀は氷製造機から氷を掬う。手早く作った氷水にタオルを漬けて絞り、航留に手渡した。


「今更だけど冷やした方がいいだろう。うん、血は出てないみたいだね」

「ありがとうございます」


 航留が頭に乗せたおしぼりタオルを、青年は痛むところで抑えた。


「じゃあ、そのたんこぶのせいかもね。記憶喪失っていうの?」


 カウンターから声をかけたのは香苗だ。臨時休業になった『時游館』に、結局居座っているわけだが、普通にモーニング用のトーストを食べている。望月も加納も同様だ。ここまでくると、真紀も文句を言う気にもならない。自分もちゃっかりモーニングを頂いた。


「そうかもしれませんね。それなら、医者に連れていくか」

「あ、でもマスター。彼、財布も何も持ってないんですよね」


 加納が口をはさむ。青年は財布はおろか、鍵もスマホも、ハンカチすら持ち合わせていなかった。ズボンのポケットも空っぽ。


「強盗にでもあったか……それか気絶してるところを持っていかれたんだろうな」

「だったら警察に――」


 真紀がたまらず訴える。見た目は美青年だし、悪人には見えないけど、そんなことは関係ない。だいたい、記憶喪失なんて得たいが知れなさ過ぎるじゃないか。たとえなにかの犯罪に巻き込まれた被害者だとしても、警察に連れていくのが正しいはずだ。


「警察……」


 真紀の言葉に反応した青年は不安そうな表情で航留を見た。『警察』がどのような組織かは理解しているようだ。そしてあまりいい印象を持っていなさそうだった。


「いや、まずは病院に連れていくよ。俺の友達に心療内科医がいるから」


 真紀は開いた口を仕方なく閉じる。友人の心療内科医。ここにいる全員が彼のことを知っている。数少ない航留の友人で、たまにこの店に客としても手伝いとしてもやってくる。

 越崎淳一郎こしざきじゅんいちろう。隣接する市の駅前でクリニックを開業している医者だ。人当たりよく、医師としての評判も良い。


 名無しの青年のことは、見つけた彼らが勝手にマスターに任せた格好になった。彼らがよく知る人物を頼る航留に、誰も異論は挟まなかった。






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