最終章 (1)
バブルの頃に造成された住宅地は、大体以前のものより一戸当たりの敷地が大きい。都心から離れること電車で1時間(しかも駅からバスで10分)という不便な場所でありながら、その時期は高値がつき、飛ぶように売れた。
洋風デザインのオシャレな家から純和風の木造家屋までより取り見取り。ただ、この数年で住人の平均年齢も上がり、満杯だった小中学校も、今では空き教室が増えていた。
そんな住宅街の一画に、レンガ造りの地元密着型カフェ『時游館』は店を構えている。
今年で4年目の秋を迎えるここは、定休日からメニューまでマスターの気まぐれ度が高い。にも関わらず、店内は常に賑わっていた。特に人気なのは午前中いっぱいやっているモーニングだ。
「あ、いい匂い。金木犀かな」
店の看板をクローズドからオープンに代えるため、天然パーマの青年がドアを開けた。真っ青な空は高く、近所の庭に植えているのであろう金木犀が風にのって香ってきた。
「おはよう、成行君」
「おはようございます、香苗さん。今日も一番乗りですね」
近所の常連、香苗がやってきた。朝からきっちりメイクし、ロング丈のジャンバースカートを着ている。少しお腹が出ているのはご愛敬だが、年齢不詳な未亡人だ。
「もう秋ねえ。水口さんちの金木犀がいい匂い」
「あ、僕も思いました。運動会の匂いだって」
「運動会かあ。さすが若いわ」
香苗がいつものカウンター席に収まると、次々と客が入ってくる。ウオーキング途中の老夫婦や出勤前の会社員、学生などなど、『時游館』が最も忙しい時間帯突入だ。
「マスター、ブレンド、アメリカン一つずつ、それと……」
カウンターの中に入り、トーストを焼きながらオーダーを入れる。九時までの第一繁忙時間は、息つく暇もなかった。
「マスター、成行君が戻ってきてくれて良かったな」
ネクタイ組が潮が引いたようにいなくなると、ようやく一息つける。それを見計らったように定年退職して悠々自適に暮らしている望月が話しかけてきた。
「ええ。ちょうど真紀ちゃんが就職決まったんで、ほんとに助かりました」
再就職先が決まるまで、と言っていた真紀は、学生の夏休みが始まる頃には就職先を決めていた。今度はフルリモートワークの会社らしく在宅勤務がほとんど。だから、『時游館』にもしょっちゅうやってくる。
同じく在宅勤務が増えた加納とともに、ここにPCを持ち込んで仕事をしている日もあるほどだ。この二人、以前よりぐっと距離が近くなっていると航留は感じていた。就活や仕事のこと、真紀は加納に相談していたようだから、そういうこともあるのだろう。
あれから、渉が逮捕されてから4か月が経っている。成行はあの後すぐ、渉のアパートを引き払い、航留のところに再び転がり込んだ。
どのみち警察が家宅捜索するのでいられなかったのだ。心身ともに疲れていた成行は、しばらく何もできず、結局大学は退学した。『時游館』ではリハビリも兼ねて手伝いをしていたのだが、真紀が就職を決めた時点で正式に復帰した。今ではバイトというより、共同経営者の立場だ。バリスタの修行も始めた。
常連客は彼が記憶を取り戻したことを喜び、零から成行にと呼び名も変化した。突然消えた後、どんなにマスターが落ち込んでいたかを面白おかしく話すのも、最近ではさすがに聞かなくなってきた。




