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第1章 カフェ時游館(4)


 毎朝『時游館』に出かける前、望月は『緑ヶ丘』の周りを囲むように作られている遊歩道を一周してから来店する。カウンターで香苗や加納と無駄話をしながら珈琲を飲むのが、今や社会の第一線を退いた望月にとって唯一楽しいと思える時間だった。ゴルフは昔の付き合いや運動のためと、誘われたら断らないスタンスだが、本音は『時游館』の朝が一番なのだ。


 今朝もいつもと同じように遊歩道を歩いていたら、こんな早朝に小さな公園のベンチに座る若い男の姿を目にした。ぽつんと一人、背中を丸めて座っている。

 この住宅地には20年以上住んでいる望月だったが、見覚えのない男だった。小学生の子供も10年経てばあれくらいになって、見違えてしまう。最初はそのひとりかとも思ったが。


 ――――酔っ払いか? 寝てしまって気づいたらこんなところにいたとか。


 しかし、ここは電車の駅からはバスに乗らないといけない、ちょっと不便な場所だ。車がないと生活ができないのが唯一不満と住民は思っている。


「君、どうしたんだ?」


 凶暴さは不思議と感じなかった。望月は前年自治会長もしていたので、臆面なく尋ねてみた。もし、この地域に困りごとを持ち込む輩であったら、すぐにも警察を呼ぶつもりでもあったが。


「あの……ここはどこですか?」


 うるうるした瞳で訴えかける青年、望月は半歩後ずさる。心臓がどきりとするくらい綺麗な顔をしていた。物理的には泥がついてるのか汚れているのだが、それが全く気にならない。

 大きな瞳に長いまつ毛、鼻筋の通った鼻にぷくんとした唇。まるでどこぞのアイドルのようだ。それとも、芸能人で自分が知らないだけか? などと首を傾げたところで声を掛けられた。


「望月さん、何してるの?」


 香苗だった。彼女は気まぐれだがたまに早朝ウォーキングをしている。今朝は気分が乗ったようだ。そこで望月はとっさに思いついた。


「香苗さん、マスター呼んできて。なんだかよくわかんないけど、訳ありの人みたいなんだ」

「え? どういうこと?」

「とにかく急いでっ!」 


 この時間なら、確実に彼は起きて臨戦態勢でいる。今の時間、普通の会社員や学生は出勤前の激動の時間だ。声をかける相手が思いつかなかった。そして今すぐ警察に突き出すのも可哀そうと情けをかけてしまったのだ。


 ――――だからってマスターに声かけるってどういうこと。


 望月の説明を聞いて、真紀は憮然とする。けれど航留は嫌な顔ひとつせず、膝をついて青年の顔を覗き込み、優しく声をかけ始めた。


「君、どうしてここにいるのか、わからないの?」

「あ……あの……」


 言葉がうまく出ないのか、空気が先に唇から漏れる。その時、背後から大きな声が聞こえてきた。


「おーい、皆さん、そこで何してるんですか? あ、真紀さん、店は今日お休みですか?」


 出勤前に『時游館』でのモーニングをルーティンにしている加納だった。薄手のトレンチを羽織り、こちらに向かってくる。どうやら店がクローズのままだったのを不審に思って探しにきたようだ。


「お客さんが帰るに帰れず待ってますよ」

「ああ、それなら。すみませんが今日は臨時休業だとお知らせしてくれませんか」


 応じたのは航留だった。真紀は『えっ』と小さく声を出したが、こういう場面で休むことを厭わないのが航留なので、そのまま黙った。


「あ、じゃあ、言っておきます」

「すみません。よろしくお願いします」

「マスター、私も戻ります」


 客の加納に任せておくのも拙いだろう。真紀は加納の後を追うべく踵を返す。


「そうだね。よろしく頼むよ」


 既に店に向かう加納の背中を真紀が追いかけていく。航留はその姿に軽いため息を吐くと、改めて青年に話しかけた。


「じゃ、そういうことなので。君、お腹空いてるんじゃない? とりあえず、俺の店に行こう。モーニングを御馳走するよ」

「え……」


 青年は再び顔を上げ、航留を真正面で見た。うるうるとしたその瞳に、ほっと安堵の色が浮かんだのを、誰もが見逃さなかった。




 足元はふらついていたが、なんとかカフェ『時游館』まで、名も知らぬ青年はついてきた。

 彼が目覚めたのは『緑ヶ丘』住宅地よりさらに奥の山中だった。もっと先に行くとキャンプ場に出るが、それよりは宅地寄りだったようだ。

 月明りしかない場所でどうしてここにいるのか見当もつかない。とにかくこのままでは寒くて仕方ない。幸いにも樹々の合間から、『緑ヶ丘』の街の灯りが見え隠れしていた。それに向かってひたすら歩いてきたという。

 ようやく日が昇った頃、公園を見つけた。既に歩き疲れていた彼は、ベンチに腰を下ろした。どこかぼんやりと靄がかかったような頭のなか。夢を見てるような感覚。そこに現れた望月に声を掛けられたと道すがら語った。


「途中で車道に出て、こちらの住宅街に入りました。頭痛と疲労で、何をしたらいいのか全然わかんなくて……」


 三月はまだ朝晩冷える時期だ。どのくらいベンチに座っていたのかわからないが、話す間も肩や指先がずっと震えてる。何も思い出せずにいながらただ光を求める虫のように歩みを進めた。それは生きる本能だったのか。そのおかげで凍死することなく人の生活圏に戻れたのは幸いだったろう。


 ――――1時的な記憶障害ってことかな。ぽつんと何も知らない世界に放り込まれたんだ。不安でどうしていいかわからないのは仕方ない。


 一行はようやく時游館にたどり着く。暖房の入った店内に足を踏み入れた途端、青年は丸くしていた背をそっと伸ばした。




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