第1章 カフェ時游館(3)
1年前。
季節は春を間近に控えた三月の終わり。桜の便りも聞こえてくる頃だ。カフェ『時游館』のある住宅街は、その奥に深い林があり(この住宅地は元々山林を切り開いて造成されたものだ)、そこに自然に生えている山桜もぽつぽつと咲き始めていた。
「おはようございます」
「あ、真紀ちゃん、今日もよろしく」
早朝というのに、キラキラした瞳を向ける若い女性。彼女が『時游館』唯一のバイト、真紀だ。身長はあまり高くないが、引き締まったボディライン、ショートカットに二重瞼のパッチリした双眸が健康的美女そのもの。実際、彼女の仕事ぶりはてきぱきと無駄がなく、客からの評判は良かった。
「はい……マスター、もう私の後任、決まりました? 今週までですよ。私がぎりぎり来れるの。てか後任決まってるなら、もう辞めたいんですけど」
真紀は通信制の大学生だった。そのためこのカフェで仕事ができたわけだが、この春、無事に卒業し、就職も希望を叶えることができた。幸いかどうかはわからないが、実家から通うので、この間際になってもバイトを続けてもらえている。
「え……と。昨日も面接したんだけど。まあ、当座は香苗さんが手伝ってくれるって言うし、あと越崎も」
香苗は常連の一人。今までも急に真紀が来れなくなったとき、手伝ってもらったことがあった。越崎というのは、航留の数少ない友人。学生時代からつるんでいた男だが、本業は心療内科医だ。珈琲好きなため、仕事に差し支えない程度なら手伝いを嫌がらなかった。
「そんな、絶対間に合わないじゃないですか。大体、香苗さんはマスター目当てだってわかってるのに、あんまり貸しを作ると迫られちゃいますよ」
エプロンの紐を器用に後ろ手で結びながら、流れるような口調で真紀は言う。
「いやあ、困ったな」
実際、航留は困っていた。客商売だから、出来るだけ見栄えのいい子をとも思うが、やはりきちんと仕事をしてくれる丁寧なのも大切だ。午後四時を過ぎれば一人でもなんとかなるが、やはり朝は人手がいる。サービス業としては休みも多いし、仕事はハードではないが、朝の早さがネックかもしれない。
「一人じゃなくて、二人か三人、雇えばいいんですよ。それなら……」
何度も言われてきたことだ。だが、航留は元来人見知りだし、そんなに雇うくらいなら店の開店日を少なくしたい。実際、真紀が休みで他も頼れないときは、堂々と臨時休業にしてきた。
いつも通りの返答をしようとした時、まだ開店前というのに入り口の扉が開けられた。朝のひんやりした空気が乱暴に侵入して来る。
「マスターっ! ちょっと来て。大変なのっ!」
「香苗さん? なに、どうしました?」
すぐに反応したのは真紀だった。血相を変えた常連客の香苗が扉の端を持ちながら、はあはあと息をしている。開店までまだ20分ある。それまではウオーキングでもしてるのか、化粧はしていたが服装はジャージで、首にタオルを巻いていた。
「とにかく来て、人が……」
ただならぬ様子に航留は店を飛び出した。真紀も店の戸締りをしてそのあとを追う。
「あ、望月さん」
香苗の後をついて小走りに進む。着いたところは小さな子供たちが遊ぶような、滑り台とブランコしかない狭い公園だ。そこのベンチに望月の姿があった。彼はベンチの横に立ち、そのぽこりと出た腹の影に人が座っているのが見えた。
「見つけたのは望月さんなの。私はマスターを呼んでこいって言われて」
「見つけた?」
見つけたのは人のようだが、そばにいる望月は落ち着いている。どうやら座っているのは危険人物ではなさそうだ。
「マスター、忙しいとこすみません。いや、なんかどうしたらいいかわかならくて」
どうしていいかわからなくて、マスターを呼ぶなんて。とりあえず警察とかに電話しろよ。とは真紀の脳内。怪しい人物がこの公園にいて、不審に思った望月が声をかけたようだ。
「放っておけなくて、つい、『どうしたんですか』と声をかけたんです」
航留は困惑する望月に表情と手で、『大丈夫だから』と合図し男のそばに寄った。全くお人よしだ。常連さんだからっていい顔することもないのに。と、再び真紀の脳内。それでも彼女もベンチで小さくなってる男性が気になった。天パーなのかくるくると柔らかい髪質、少しメッシュに入れてるのはオシャレからか。服装はシャツにテーラードジャケット、下はデニムで見た感じは大学生だ。ズボンの裾やジャケットが少し汚れている。座っているが身長は高そうだった。
「あの……君……大丈夫かい? ここで、何してるんだ?」
航留の声にぴくりと肩を揺らした青年は、顔を上げる。そこには多分、四つの怖いもの見たさで興味津々な顔が映っただろう。
――――うわ、綺麗な子。
――――イケメン。王子様みたい。
――――やっぱり芸能人かな。
――――まつ毛が震えてる。怯えてるのか?
それぞれこんな感じで彼を見た。彼はその好奇な視線に耐えきれなかったのか、また顔を伏せてしまった。
「僕……なにがなんだかわからないんです。と言うか、自分が誰か……思い出せない」
ぽつりと消え入るような声。今度は四人がそれぞれの顔を見合わせた。