第1章 カフェ時遊館(2)
「や、おはよう」
加納の隣に座り、持ってきた新聞を広げるのは既に定年退職した望月だ。髪は白くなり腹もだいぶ出てきたがまだ元気いっぱい。この店に来ない朝は、早朝ゴルフに出かけている。大企業の役員だったらしく、彼もまた生活に全く困っていない部類だ。
「おはようございます」
「おはよう、零ちゃん、いつも可愛いわね」
朝からきっちり化粧をした香苗が零に声をかける。彼女は旦那様が遺した自宅で書道教室を開設している。生徒は子供から成人に至るまで幅広く、評判もなかなか良いようだ。この『時游館』の看板やメニューの文字も彼女の手によるもので、いかにも自由な雰囲気が醸し出される字体が航留は気に入っている。
「ありがとうございます。どうぞ、モーニングセットです」
三人は各々自分の好きなドリンクを航留にオーダーする。ブレンド、アメリカン、エスプレッソ等々。それを航留が淹れている間に零がサラダとゆで卵、それにこんがりと焼けたバタートーストを準備する。
「いい匂い。幸せな朝って感じね」
「はい。そうであってほしいです」
開店から10分もしないうちに、カフェは満席になる。大した席数はないとはいえ、たった二人でこれを切り盛りするのは相当ハードだ。零が来る前は、近くに住む女子大生をバイトで雇っていたのだが、彼女は就職し来れなくなった。零はその入れ替わりに入ったのだ。求人に応えたわけではない。この都合の良い入れ替わりは完全なる偶然だった。
「零ちゃん来てから、もう1年になるの?」
10時を回ったころ、BGMのクラシックのように店は落ち着きを取り戻す。出勤前に訪れる客は回転が速く、この時間には出払っている。家事を終えた主婦たちが来るまでまだ少しある。新聞を読み終えた望月も帰り、カウンターに未だに居座っているのは香苗くらいだ。
香苗は二杯目の珈琲、彼女のお気に入りであるオレンジラテ(マーマレード入り珈琲・意外な組み合わせだが美味)を飲みながら零に声をかけてきた。
零はカウンターの中で、明日のためのトースト用パンをひたすら切っている。山型のパンを四枚切りほどの厚さにスライサーで切り、それをまた半分にするのだ。午後からはゆで卵にかかる。客が少ない時間も休んでいる暇はない。
「ああ、そうですね。もう三月かあ。早いものですね」
「もうすっかり店の顔ねえ」
両手でカップを囲むようにして口角を上げる。今日のカップはマイセンのチューリップ柄だ。こういうのを喜ぶと、航留は重々承知なのだ。
「いやあ、そんなことは。まだまだです」
「謙遜することはない。お陰様で彼の評判は良くて。もうバリスタもやって欲しいのですけどね」
と、同じくカウンターの中にいる航留は食洗器からカップを取り出し棚に並べてながら応じた。
「そうよねえ。最初の頃は、こう、なんかきょどってて。それもまあ、可愛かったんだけど。最近は頼りになる感じよね」
「喜んでいいのかわかりませんが、褒められたってことで喜んでおきます」
きょどっていたと言われた零だが、それは自覚してるところでもあった。常連から頼りになると思われているなら、それは何よりだ。
「それで……どうなの? 少しは、その、思い出したこととか、あるの?」
店にはテーブル席に、幼稚園の見送り帰りのママ友三人が話に花を咲かせているだけだ。それでも香苗は声を潜めた。このことを知っているのは、常連と言えど、朝からカウンターを陣取る三人の他にはいない。
尋ねられた零は、カップを並べ終えた航留と目を合わせた。少し困ったような、でも口元を緩めて苦笑いを浮かべた。
「いえ。残念ながら、全く」
「そうなんだぁ。まあ、過去より今、今より未来よね」
軽く言われてしまい、『そうですね』と曖昧な相槌を打つしかない。自分の記憶……20年以上は生きていたと思われるのに、思い出せるのはたった1年分しかない。所謂エピソード記憶と呼ばれるもの。今から1年前、零が航留に出会った日は、それまで生きてきた記録を失った日だった。