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第3章 帰還(2)


 成行は、今朝自分に起こったことを順序だてて説明した。渉が冷蔵庫から出してきたジンジャーエールでのどを潤しながら。


「それじゃあ、気が付いたら道路で転がってたってわけか?」


 ようやく腰を落ち着かせた渉の問いに、成行がこくんと首肯した。


「そうなんだよ。全く知らない場所だった。どうやら僕は男の子を引きそうになってたみたいで。あ、彼は全然無傷。自分だけがハンドル操作を誤って転んだみたい」


 よく見れば、ブルゾンの肘のところやズボンに汚れがある。手のひらにも擦り傷があった。


「頭打ったのか数秒気絶したようなんだけど……でも、目を開けた時、そこがどこでどうしてこんなところにいるのか、なんで見たこともない自転車をこいでるのかわからなかった」

「怪我は大丈夫なのか?」

「うん……多分。触ると痛い程度だよ」


 と、成行は側頭部のあたりを撫ぜた。ズボンのポケットには千円札が3枚、二つ折りにされ入っていた。だが、持ち物はそれだけだ。


「すぐそこにバス停があって、S玉バスの。それでそこが……S県だってわかったんだ。なんでここにいるんだって思ったけど、とにかく帰んなきゃって」


 やってきたバスに乗り、鉄道の駅に着く。東京には小一時間で戻れる距離だ。お金も足りたので快速に飛び乗ったという。


「S県? 隣じゃねえか。ああ、まさかそんな近くにいたなんて……」


 渉は整った顔を歪める。


「でも、そこでもっと恐ろしいことに気付いたんだ」


 電車は通勤時間だったため混雑していた。みなスマホにイヤホンのおなじみの光景だ。だが、そこで珍しく新聞を読んでる人がいた。何気なく目をやると、日付がおかしい。


「僕が覚えてるのは、3月25日。奈津美とデートの約束してたんだ。だけど、その新聞は3月19日だった。1週間も前の新聞を読むなんておかしすぎる。それで人に挟まれながらよく見ると……」


 和暦が1年後の数字だった。二度見したが数字は変わらない。思い違いかと記憶を探ったが間違いない。人目もはばからず、悲鳴を上げそうになったという。息を吸ったところで電車のアナウンスが入り、声を上げることは防げたが、それでも吐きそうになった。


「新崎に着くころには人が減って、ふらふらと椅子に座ったんだけど。電車の中吊り広告を見ても、どうやら僕が知っているときより月日がはるかに経っていることは明白だった。総理大臣は知らない人だし、W杯は終わってる体だった……どこ優勝したの?」

「イングランドだよ。いや、そんなんどうでもいいだろ」


 混乱が手に取るようにわかった。その後、成行は自分の住んでいたアパートに向かった。ここからそんなに遠くない、大学そばの学生向けのアパートだ。だが、そこにはもう成行の部屋はない。家賃もかかるし、学生にとっては人気物件だったので、彼の両親がこの2月に引き払っている。新入生のためだ。


「まあ、鍵も持ってないし、ただ、自分がここに本当に住んでたのか知りたかっただけで。記憶通りの場所にあったのを確かめたかったんだ。最初から、渉のところに来るつもりだった」

「俺のとこ?」

「僕が頼れるのは、おまえしかいないって思ってたから……」


 それはそうだろう。お互い積極的に人付き合いをしようという性格ではない。成行と渉は高校時代からの友人だった。二人とも高校では特待生でクラスも同じ。大学も学科は違うが同じ学部に進んだ。要するに、親友と呼びあえる仲だ。


「そうか。それは素直に嬉しいよ。でもよかった。俺も昨日まで旅行してたから」

「そうなんだ」

「おまえを探してたんだよ」

「え……」

「休みを利用して、おまえが行きたいって言ってた場所をね。ま、ただの遊びだけど、それでも可能性はあるかと思ってさ」

「ああ……僕、この1年のこと、何も覚えてないんだ。自分のことも社会のことも……もしかしておまえとすれ違っていても、気づかなかったかもしれない」


 成行の大きな瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れてこぼれた。声が漏れるのも憚らず泣きだす成行。正面に座っていた渉は成行の隣に移動し、肩を抱いた。


「大丈夫だよ。これですぐに元通りになるさ。大学にも戻れる。落ち着くまでここにいればいいから」


 泣き崩れる成行を励ましながら、渉は成行を失っていた1年を思う。探し求めても一向に見つからず、諦めようとした時もあった。けど、ようやく再会できた友人は、会えなかった日々のすべてを忘れていた。その間、彼は自分のことも大学のことも、恋人のことも全く思い出すことがなかったのだと。





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