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第2章 1年間(6)


「ねえ。マスター」


 スカウトの挙動不審な態度を思い出し、ニヤついていた航留。はたと気づくと、すぐ目の前にメッシュの頭頂部があった。


「おっと、どうした?」

「僕、マスターがゲイだって聞いて、なんだかその、おかしな感情になったんです」


 立ち止まった零は海のほうに向きなおる。彼の艶のある肌にゆらゆらと光の波紋が映った。


「おかしな感情?」

「どこか、安心したっていうか。ホッとしたんです」

「それは……相当おかしな感情だな。自分が何者かわからなくて、居候させてやるって男がゲイだと言われた状況なら」


 ヤバイ状況、身の危険を感じても不思議はない。


「越崎先生は、それでも信用できる奴だからって言ってましたけど」

「へえ。それは初耳だ」


 同じように海に向く。やはり眩しい。航留は目が開けられなくなって瞼をしばしばとさせた。


「僕、きっと……なんだと思います」

「え?」


 細い声。地声は大きいほうではないが、活舌がよい。けれど波の音ではっきりと聞こえなかった。航留は風になびく前髪をかきあげ、零を見た。


「なに?」

「マスターのこと好きなんです。だから……」


 今度ははっきりと聞こえた。航留はピンセットで神経を摘ままれたようにびくんと反応する。


「零……あのっ」


 落ち着け。零も自分も。


「僕、ゲイなんだと思います。そういうのは、記憶がなくなっても忘れないし変わらない。きっと。マスターのこと、好きだって気づいて」


 脈略のない言い訳のような零の言葉。それを聞いていながら、航留は自分の心臓と波の音がうるさくて、理解の淵に届くのに時間がかかった。


「マスターは……僕のこと、どう思ってますか? 厄介なバイト……かな」

「え、そ、それは」


 どうって、それは。抑えてきた想いを解放してもいいのだろうか。寝かしつけてたものを突然たたき起こすなど、乱暴意外のなにものでもない。


 ――――なんて言えばいいんだ。俺は……ええい、ままよ!


「零」


 脳で考えるよりも早く、体が動いた。零を背中から抱きしめる。


「厄介なわけない。俺も……俺も零が好きだ」


 零のくせっ毛に頬ずりし、ぎゅっと腕に力をいれる。びくっと震える体。それでもやがて、零の指が組まれた腕に絡んでくる。自分の体に体重を預けるのを感じた。


「良かった……。夜中に足止めしたのに……マスター、なにもせずに部屋に戻るから」

「ええ? なんだ。あれ、誘ってたのか?」


 あの悶々とした夜、まさかそんなことがあろうとは。航留の顎の下で、零が小さく頷いている。


「やっぱり、気の毒にと同情してるだけなんだって思ってました」

「馬鹿……俺はあの時……ああ、もういいよ」


 腕の中で零を回し、正面を向かせる。うるうるとした黒い瞳が二つ、航留を見つめている。うっすら桃色に染めた頬、艶やかな唇。航留はそっと、その唇に自分のそれを触れさせる。ゆっくりと、うっとりするような口づけを交わした。


 繰り返し繰り返し、波が足元に寄せては返す、間断ない波音が二人を包んでいた。




 その日から、二人の同居は同棲になった。記憶を失ったことを忘れるくらい、幸福を感じる日々。不思議なことに頭痛やめまいもほとんどなくなり、夜中に悲鳴で起きることもなくなった。同じ部屋で眠ることで心が安定したせいもあるだろう。


 店の外では、呼び名もマスターから航留に変化した。二人の間にあった主従関係も他人行儀な言葉遣いも、瞬く間に消えてなくなった。


「もう、記憶戻らなくてもいい」


 零の本音がどこにあるかわからないが、そんなことを口にするようになった。航留は何も言わず苦笑いしながら零の頭を軽くとんとんする。それは、航留こそが願うことだった。


 ――――もう、記憶なんて戻らないでくれ。


 夏には二人で海へ行き、秋は紅葉を眺め、雪が降ったクリスマスには子供のようにはしゃいだ。


「世界がこんなに美しいなんて、知らなかった」


 零がため息交じりに吐く台詞を、航留はその両腕で受け止めた。

敢えて隠すことをしなかった二人の関係は、すぐに越崎や店の常連客達にそれと知られるようになった。彼らはそれを祝福し、カフェは今まで以上に明るい雰囲気になった。ただ越崎だけは、反対せずとも一歩引いた態度ではあったが。

そして季節は巡り、二人にとって二度目の春が『時游館』に訪れた。





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