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第2章 1年間(4)


 まるで航留の未来を予言していたかのような越崎だが、彼にも航留は嘘の報告をしていた。警察に届けたということだ。

 越崎はなんとなく嘘を見破っていそうだが、それ以上は問い詰めてこなかった。これも少し不気味だ。それでもたまに『時游館』にやってきて、零の様子を見てくれている。


「顔色いいね。この間会ったときよりも少し太った?」


 何度目の来館だろうか。初診から3ヶ月ほど経ったこの日も、越崎は車を飛ばして『時游館』に来ていた。昼過ぎ、ランチのないこの店では、一番客が少ない時間だ。


「え? 太りました? ああ、でもそうかも。マスターのご飯美味しいから」

「さもありなんだな。けど、早朝からの仕事はきつくない?」

「いえ、全然。昼休憩もらってますから。それに……マスターは優しいし、毎日楽しいんです」


 照れるような様子で遠慮がちな笑顔を見せた。彼のその笑みに嘘はないようだ。マスターは優しい……か。越崎は苦笑した。


「仲良くやってそうで安心したよ。ノート、書いてる?」

「はい。あ、今持ってきます」

「いや、それはいいよ。僕に見せるためじゃない」


 そのノートは、ある日突然自分がここにいることが分からなくなった時、つまり本来の記憶を取り戻した時に必要なのだ。越崎はそう言いたいのだろう。カウンターの中で二人のやり取りを聞いていた航留はふと越崎と目が合う。憐みのような責めてるような、そんな視線だ。

 航留は手元の、珈琲を注ぐカップに目を落とした。


 ――――越崎は、俺が嘘を吐いているのに気付いているのだろうな。


「さて、そろそろ帰るか。午後の診察に間に合わない」


 越崎が長袖のシャツの袖をさっと上げる。腕時計を見るためだ。相変わらずのブランドシャツで、光沢のある茶系、ボタンまで細工がしている。もちろん時計も高級品だ。シャツに合わせて茶系の革のベルトがついている。何気なく覗いた航留、そのとき、大げさな破壊音が鼓膜に直撃した。


「あ、どうしたっ!?」


 トレイを落とした音だった。トレイはプラスチック製だが、運悪く下げたコップが二つ載っていた。水と氷、割れたコップが床に散乱した。


「す、すみません。すぐ片づけます」


 いつの間にそばに来ていたのか、トレイを落としたのは零だった。慌ててカウンターの中に入ると、掃除道具をロッカーから取り出す。


「慌てなくて大丈夫だ。越崎、濡れなかったか?」

「ああ、平気だ。手伝うよ」


 客でもあるが臨時バイトでもある越崎は堂に入っている。零よりもテキパキと片づけ始めた。航留もゴミ袋を持ってカウンターの外に出る。


「お騒がせしました」


 テーブル席にいる数人の客たちに頭を下げ、片づけの輪に入る。塵取りに入れられたガラスの破片をゴミ袋に投入し、航留はモップを掛ける零の顔を覗きみた。こんなあからさまな失敗は彼にとって初めてだ。さぞ焦っているだろうと思ったが、想像以上に顔面蒼白だった。


「零、大丈夫か。後は俺がやるから、休憩しろ」


 航留は軽く肩に手をおき、零に声をかける。


「あ……」


 モップを持ったまま、零が航留を見上げる。至近距離で見つめる瞳は、瞳孔が開いているのかと思うくらい大きく見開いている。色を失った唇がわずかに震え、怯えているようにも見えた。


「どうした。零?」

「す、すみません……ふらついてしまって」


 航留は零の手からモップを取り上げ、ごみ袋の口を縛っている越崎に足で合図した。


「なんだよっ。あ、ああ」


 異変に気付いた越崎は立ち上がった。


「野波君、裏に行こうか」


 肩を抱くようにして零を歩かせる。そのまま店のバックヤード、休憩室へと入っていった。

 片づけを終え、店内は通常モードに戻った。心地よいクラッシックのBGMが流れるなか、テーブル席の一組が会計を済まし退出していく。それを待っていたかのように、越崎が休憩室から出てきた。


「あ、零の具合どう?」

「もう大丈夫だよ。なんかめまいがしたみたいだ」

「そうか……」


 やはり医者に連れていくべきか。脳内ではなにが起こってるのかわからない。取り返しのつかないことになったら零に詫びる言葉もない。


「おまえが望むなら……いや、野波君が望むなら、か」

「なんだ」


 さっきはもう帰ると言っていた越崎は、航留が淹れた2杯目の珈琲をカウンターで飲んでいる。苦悩の表情を見せる航留に、ため息をつきながら話を続けた。


「知り合いの病院で精密検査を受診させてやってもいい」

「え、それは」

「医者としては、やはり心配なんだよ。野波君も……おまえも」


 越崎は胸ポケットから名刺入れを出し、その中から1枚取り出した。


「伯父がやってる総合病院だ。ここならCTとか撮ってくれる。僕から話しておくから、日曜日行ってこい」

「越崎……すまん。いや、ありがとう」


 やはり越崎には全部ばれていたのだろう。警察にも病院にも行ってないことを。そして、まだ心に秘めていた零への気持ちも。


「すみませんでした。もう大丈夫なので」


 越崎がようやく帰り支度を始めたとき、零が店に出てきた。確かに先ほどよりもずっと顔色がいい。航留はほっと胸をなでおろした。越崎も安心した表情を見せ、『時游館』を後にした。

 




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