第2章 1年間(3)
それから2ヶ月が過ぎた頃には、3人の常連すら零が記憶喪失であることを忘れてしまうようになった。それほどこの場に馴染み、ずっとこの店で働いているような錯覚を覚える。
気さくに常連たちと会話しながら、きちんと店員と客との線引きをする。そんな賢さも垣間見れ、このままこの日々が続くものだと誰もが思っていた。
だが、航留には不安があった。初めて越崎に零を診せた日。彼の面倒を見ると決めた日だ。越崎は航留に言った。
『記憶障害は突然治ることもある。通常軽症だと、2、3日で戻るよ。だけど、その場合、今の、記憶を失ってた間に起きた時間を忘れてしまうことが多い。つまり、おまえのこともまた初対面に戻るってことだよ』
『へえ。それはまた、不思議な話だな』
『人間の脳みそなんて、宇宙空間より謎多いよ。解明されてないところが多すぎる』
『ふうん。まあ、それも仕方ないな。過去を取り戻したなら、俺の存在なんていらないじゃないか。早々にお引き取り願うさ』
2、3日ならそれでいい。『いやあ、君、記憶喪失でさ』なんて信じないかもしれないけど、自分で書いた日記を確認すれば、それなりに納得できるだろう。
そのうえで、親しい人たちのところに戻ればいい。だが、彼は今もまだ記憶が戻っていない。警察に行くのを取りやめた日から、時間が経つほどに航留が零に寄せる気持ちは膨らみ続けている。
――――その日が長くなればなるほど、ここにいる時間が延びれば伸びるほど、記憶を取り戻してほしくない。そんな身勝手な気持ちが大きくなっていく。
零は航留に買ってもらったスマホで、色々なものを写真に撮っていた。自分の『今』の記憶を留めるのに、日記だけでは足りないとでも言うように。『時游館』の内観、外観はもちろん、自分の部屋や航留が作った食事まで記録に納めていた。
時には常連客たちと記念撮影することもあり、航留も喜んで被写体になった。『誘拐犯だと思われても困るからな』なんて笑っていたが、本音はそうじゃない。
――――忘れてほしくない。
気付けば航留は零がここから去ることを恐れるようになっていた。ずっとこのままの日々が続いてほしい。
2階の住居スペースでも、航留は零と過ごす時間が長かった。一緒にテレビでサッカー観戦したり映画を見たり、本を読んだり店の客たちの噂話をしたり。
それがとても楽しくて穏やかで。凝った料理をテーブルに並べると、『マスターは何でもできるんですね!』なんて零は屈託のない笑顔を見せる。零が過去を失くしたなんて傍から見たら思いも寄らないだろう。航留はこの時間が永遠に続いて欲しいと願わずにはいられなかった。
だが、そんな彼の願いはちょっとしたことで崖の淵をさまよってしまう。零が時々頭痛に見舞われることもその一つだ。つい最近、再び隣の部屋から悲鳴が聞こえることがあった。その夜はまた、航留にとって悩ましい夜にもなった。
「もう少し、ここに居てくれませんか」
何かを思い出したかもと不安になりながら隣室を覗くと、零は起こしたことを詫び、以前と同じく何も思い出していないと告げた。安堵したのを隠し、自室に戻ろうとする航留に零はそう言ったのだ。
「ああ……構わないけど」
翌日は店の定休日だったからか、零がそんな甘えたことを言うのは珍しかった。航留は零の隣に腰を下ろし、少しの間話をした。
すぐそばにいる零の肩を抱きたい気持ちがせり上がってくる。心臓は煽り、下腹部も緊張する。零が色々と感謝を伝える言葉も右から左に流れてしまう。適当な相槌を付きながら、航留はずっと拳を固く握っていた。
――――どういうつもりなんだ。零は。俺を揶揄ってるのか?
「聞いてます? マスター」
航留がなにも言わないのに怪訝な表情を見せる。無垢な瞳をまんま航留に突き付けてきた。このまま押し倒したい衝動を抑えるのに航留が苦労したのは言うまでもなかった。
「あ、えっと、ゴメン。半分寝てたかも」
この期に及んで、越崎の言葉が脳裏を過った。
『記憶喪失の子を、面倒見る代償として襲うほど落ちぶれていないとは信じてるがな』
彼の気持ちもわからないのに、手を出すなど言語道断だ。航留は自重し、苦笑いを返した。
「あ、ああ。すみません。ですよね。ありがとうございます。少し落ち着きました」
名残惜しそうな表情を見せる零。そこでようやく、航留は零が何を言いたかったのか理解した。
「心配しなくてもいいよ、零。君はずっとここに居たっていいんだ。記憶が戻らなければここが君の居場所だ」
「マスター……」
零の表情がぱあっと明るくなる。そうだ、零は不安だったんだ。いつか自分がここを追い出されるのではないかと。それを埋めたいがために、こんな時間に航留を引き留めていた。
「それに、たとえなんか思い出しても……ここが良ければ今まで通りここに居て、バイトしてくれれば助かるよ、俺は」
「バイト……。ああ、はい。そうですね。よろしくお願いします」
一瞬だが、彼の瞳が曇ったような……。けどすぐにそれはまた笑みに変わり、ぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、また明日。おやすみ」
「はい。おやすみなさい。遅くまでありがとうございました」
航留は零の頭をごしごしと撫ぜる。愛おしい想いが溢れてくるのをどうにか表現したかった。
それでもすぐに踵を返し、部屋を出て行くことが出来た。そのまま自室のベッドに倒れ込み、しばらく悶々とすることにはなってしまったが。