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第2章 1年間(2)


「どうした!? 零!」


 ベッドを飛び出し隣室のドアを開ける。廊下の常夜灯が照らす人影が一つ、ベッドの上でうずくまっていた。


「零? 大丈夫か?」

「あ……マスター、すみません……起こしてしまって」


 航留は部屋の灯りをつける。パジャマ姿の零が大きな目をさらに大きくし、苦しそうに肩を上下させていた。


「いや、そんなことは構わない。なにか思い出したのか?」


 もしかして、記憶を失う原因となったことを思い出したのかもしれない。


 ――――恐ろしい出来事なのか、こんなにも怯えているのは。


 航留はそっと零の隣に腰を下ろす。零も布団から足を出し、ベッドに腰かけた。


「いえ、そういうんじゃないんですが……凄く怖い夢を見たような。でも、それが今、目を覚ましたらなんだったかわからなくて」


 夢を見て、起きた途端に忘れてしまう。そんなことは航留にも覚えがある。けど、あんな悲鳴を上げるほど恐ろしい夢を一瞬で忘れるだろうか。


「すみませんでした。もう大丈夫ですから、休んでください」


 その夜はそのまま部屋に戻ったのだが、航留は気になってなかなか眠れなかった。やはりこのままでは駄目だ。翌朝、航留は意を決して零に行ったのだ。


「零、明日警察に行こう。店は臨時休業にすればいい」


 モーニングの準備のため早朝に起きる航留。彼を手伝おうと店に降りてきた零に航留はそう告げた。予想外だったのか、零は一瞬固まったように唇を閉ざした。それから野菜を黙って洗い出す。


「その……どうしてもそうしなければなりませんか? 僕、今の生活にようやく慣れてきて。カフェのバイトも楽しいし……」

「いや、でも、零」

「わかってます。昨夜みたいなことがあったら、迷惑ですよね。けど、今はもう気分もいいし、全然大丈夫なんです」


 零が言う通り、昨夜のことが嘘のように今朝も肌艶がよく美しい、天使のような青年が笑みを浮かべている。折角決した意がすぐにも崩れてしまいそうだ。


 ――――まだなにも思い出してないんだ。零は。だったら警察に行くのは、まるで無理やり突き出すようなものじゃないのか。


「マスターも、僕がいなくなったら困る……でしょ? 僕、一生懸命働きます。カフェだけじゃなくて、この家の掃除や洗濯も」

「そんな必要はない。自分のことだけしてくれればいいよ。でも、本当にそれでいいのか? 大きな病院で検査すれば、記憶が戻るかもしれないし」

「戻らないと思います。そういうことじゃないんですよ、きっと……」


 伏し目がちにして、けれどはっきりとした口調で零は言う。長いまつ毛がぱさりと音を立てるようだった。


「僕、きっと思い出したくないんです。だから記憶が戻らないんだと思うんです。きっと、嫌なことが待ってる。そう思うんです」


 零の絞り出すような言葉に、航留はどう答えていいのか迷った。


「あ、でも、それじゃあマスターが困りますよね。得体のしれない、いや、犯罪者かもしれない人間と暮らすなんて……ごめんなさい。勝手なこと言ってしまって」


 1週間、共に暮らし仕事もし、でもそれだけで他人のことがわかるわけはない。しかも記憶喪失なんて嘘をついて、善人のふりをしているのかもしれない。だが、さすがにそこまで人を見る目がないとは思えなかった。

 彼の身なりからは、生活苦のようなものを感じなかったし(大体そういうのは、靴や靴下に顕れるものだ。古く汚れた靴、穴のあいた靴下などなど。零のそれらは新品ではなかったが綺麗で清潔だった)、言葉遣いもきちんとしていた。


 ――――だからもし、本人が言うように思い出したくないのなら、それは頭の打撲に至った経緯じゃないだろうか。それがとても恐ろしかったとか。悪夢を見るような……。


「わかった。零の気持ちを尊重することにするよ。ま、居てくれると助かるってのが俺の本音だけど」

「ほんとですか!? 良かった。ホントに良かった」


 何度も良かったと繰り返す零。その姿を見ていると、やはり愛おしい思いが芽生えてきてしまう。航留は眩しいものを見たように、すっと目をそらした。


「でも、気が変わったら、絶対に言うんだ。俺はすぐに動くから」

「あ……はい……わかりました」

「まずは求人広告出さないといけないからなあ」


 なんとなく笑いに紛らせ、その日の会話は終わった。けれど、航留は気付いていた。昨夜眠れなかったのは、零を心配してのことだけではなかった。本音は零が過去を思い出すのが怖かったのだ。思い出してさっさと元の場所に帰っていく。その来るべき未来が不安で眠れなかったのだ。

 警察に行こうと言ったのは、その不安をさっさと終わらせたい気持ちもあった。けれど、その決意を零が拒否してくれたことが、実は嬉しかった。


 ――――零自身が行きたくないと言うんだ。だから、本人の意思を尊重するのが筋だよな。


 自分に嘘を吐いて、航留はそう納得させていた。間違っていない。俺は彼がいることで実際助かってる。彼にしても、今の不安なまま、過去に追い出すのは良くないんだ。夜中に悲鳴を上げるような恐ろしいことがあったのだ。だから無碍にできないんだ、と。




「それじゃあ、私、もう帰りますね。明日は入社式だー。頑張るぞっ」

「ああ、頑張ってね」


 未来に期待を寄せる笑みを見せ、真紀は帰っていった。店内はテーブル席の主婦らしき四人を残すだけになる。あの年代になると声が大きくなるのか、話がヒートアップするにつれ、否応なく耳に入ってくる。

 どうやら最近、都心のほうで起きている殺人事件の話のようだ。女子大生二人が相次いで殺される事件が起きてるのだが、そういえばつい最近、真紀がもう女子大生じゃないから心配しなくてよくなったとか言っていた。女子大生なんて制服着てるわけでもないのに、安心できる根拠はないだろうと返したのを思い出す。


「マスター、新しい子、すごく可愛くていいわね」


 彼女たちもようやく重い腰を上げ、会計にやってきた。常連でもある一人が、航留にそう囁く。


「ありがとうございます。まだ慣れなくて、なにか不都合なかったですか?」

「とんでもない。丁寧だし、全然問題ないわよ」


 後ろにいた主婦たちも口々に褒め、航留はまんざらでもない。やはり、彼が居てくれるのは助かる。『また来るわね』と言って去っていく客たちに深々と頭を下げた。




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