第2章 1年間(1)
最初の1週間。何もせずにゴロゴロしてるのも苦痛だと、零はカフェの手伝いを申し出た。自分がなにかしら働いていたのなら、思い出すこともあるかもしれないとも言う。
越崎からは、じっとしてるよりも刺激があったほうが良いと言われていたので、航留は承諾した。第一、人手が欲しかったところだ。航留にとっても渡りに船だった。
事情を知る3人の常連と真紀には、彼が記憶喪失であることは内緒にするよう頼んだ。こうしてカフェ『時游館』のフロアに立つことになったのだが、見た目の良さはもちろん、人当たりも良く覚えも早い零は、瞬く間に看板店員になってしまった。真紀は晴れてバイトから解放されたわけだ。
「でも、もしかしたらこういうバイトしてたのかもね。何か思い当たることある?」
明日から社会人となる真紀が、昼間の空いている時間にやってきた。カウンターでシフォンケーキとブレンドを飲みながら、零に尋ねている。
「さあ……思い出すことはないんですが。でも、体が自然に動くというか、次に何をすればいいのかわかるんです。だから真紀さんの言う通りかもしれません」
「なるほどね。でも、即戦力になってよかったですね、マスター」
「あ? ん。そうだな」
航留はカウンターの中で、明日の仕込みを始めていた。零にはまだ、調理そのものには手を出させていない。ホールのみだ。
「マスター、でももう、期限の一週間過ぎてるじゃないですか」
零が新たな客たちのオーダーを聞きに行ったのを見計らい、真紀が航留に囁いた。約束は1週間だったはずが、零がここに来てから、既に10日が経っていた。
「ああ、警察には行ったし、一応検査も受けた。まあ、結果は越崎の見解と同じだったけどな。でも、捜索願いのなかに、零らしき人物はいなかったんだよ。大学生だと今は春休みだから、いなくなっても捜索願まで出さなかったのかもな」
「あー。そうなんだ。彼みたいなタイプが孤独の引きこもりってのは想像できないし。そうかもしれませんね」
「ま、警察には届けてきたから、そのうち何か言ってくるさ。それまではうちで面倒見るって言ってある」
「なるほど。でも、マスターとしては、このまま住み込みでもいいから働いててほしいんじゃないですかあ?」
訳知り顔で真紀が航留の顔を覗き込んだ。笑いを含んだ表情だが、真紀は航留のこと全てを知っているわけではない。
「あ、ばれたか。そうだよな。真紀ちゃん目当ての客筋は減ったけど、今は零目当てが増えてるからなあ」
「お愛想しなくていいですよっ。でも、ほんとに女性客増えましたよね」
真紀は店内をちらりと見渡す。満席ではないが、埋まってる席には全て女性が占めている。若い子もいればおばさん、おばあさんまでいる。
「この時間はいつもそうだろ。客数が目に見えて増えたわけではないよ」
真紀は相槌を打ち、正面を向きなおした。そのうち零が戻りオーダーを航留に告げる。三人はまた、それぞれの作業に戻った。
――――警察には行ってきた……か。
航留は豆を挽きながら、脳内で真紀の言葉を反芻した。
――――それは嘘だ。
警察も病院も行っていない。10日前、越崎のクリニックから帰ってきてから、何も変わってはいない。別に航留が一方的にそうしたわけではない。1週間が過ぎようとした頃、航留は零に明日警察に行こうと言った。一緒に付き添っていくからと。それは初めから決めていたことだったが、何よりもその前夜に起こった出来事が衝撃的だったからだ。
『きゃああっ! 助けて!』
深夜2時ごろ。すっかり寝入っていた航留は突然水をかけられたかのように飛び起きた。隣の部屋から、闇をつんざく叫び声が耳に飛び込んできたからだ。
二階の住居スペースはキッチンとリビングダイニング。それにベッドルームが二つあった。いつもは客が来た時に使う部屋を零は使用していた。声はそこから聞こえてきた。