第1章 カフェ時游館(9)
「記憶ってすぐに戻るんじゃないのか?」
「え? いや、まあそうだな。頭を打った時のことはともかく、過去のこと、つまりは自分が誰とかってことは思い出すはずだ」
「じゃあ、それまで俺のところで面倒見るよ。思い出せば、自分で帰れるだろうし」
その言葉に、越崎はあからさまに怪訝な表情を見せた。
「なんでだよ。そんなこと、人見知りの激しいおまえらしくない」
「いいだろ……こっちも客商売してるから、今はそんな人見知りじゃない。なんだか気の毒なんだよ。ワケもわからないのに、警察なんかに連れられて」
「医師としてはちゃんとした病院での検査を希望するが」
「ここはちゃんとしてないのかよ」
「な……言っておくが、ああいう事件性が考えられる患者を診るような場所ではないよ」
むっとして腕を組む。時間外に押しかけてきて、診てもらってるだけでもありがたいのに、あまり刺激をするのは良くない。航留は素直に詫びた。
「すまん。でも警察行ったら、はいさよなら、ってことになる。なんだか無慈悲で後味が悪い」
「捨て猫や捨て犬を保健所に連れていくわけじゃない」
「そうだが……」
しばしの沈黙。越崎は大きなため息をついた。
「血液検査だけはしておくから。それと……1週間経っても記憶が戻らなかったら警察へ行け。いいな」
最大の譲歩だった。航留はわかりやすく頬を緩ませ、礼の言葉を述べた。頭を下げる航留に越崎が続けた。
「それから、彼にはおまえがゲイだって言っておいたぞ」
「え? なんでだよ。おまえが言うことじゃないだろう」
「隠してたら、フェアじゃないだろ。あんな綺麗な顔した子だ。おまえの魂胆は見え見えなんだよ」
「それは違うっ!」
かどうか、実はわからない。今は同情の気持ちも強いが、一目見て気になったのは言うまでもない。
「違わないだろ。だが、記憶喪失の子を、面倒見る代償として襲うほど落ちぶれていないとは信じてるがな」
「あ、当たり前だっ」
怒りを露わに、と言うより、そんなポーズを意識して吐き捨てる。
「それで……彼、零は何て言った。俺がゲイだって聞いて」
こほんと咳をしてから、航留は尋ねた。
「そうですか……てさ。心ここにあらずって感じかな。ゲイの意味はわかる? って聞いたら、『わかります』と言ってた」
――わかります。教えてくださってありがとうございます。
野波零はそう答えていた。ぼんやりとした表情、やがて、くっきり二重の大きな瞳を何もない空間に向けた。
どうするにしても本人の意思を聞かなければと、三人は再び診察室で膝を突き合わす。航留が記憶が戻るまで家にいてもいいと言うと、彼は考える様子もなく答えた。
「お願いします。そうしていただけるのなら。あの、よくわからないのですが、警察は、まだ行きたくなくて。なにか悪いことが起こるような気がするんです。決心がつくまででも構わないので」
最後はまるで航留にすがるように訴えた。一瞬、記憶喪失は嘘っぱちで、逃亡者か何かなのかと疑惑が脳裏をよぎる。それでも航留は『まあいいか』と思ってしまった。
――――凶悪犯だとしても、命取られるだけだ。それ以上悪いことは起こらないだろう。
大きな目標があるわけでもない。カフェが軌道に乗っていても、例えば二号店を開店しようとか、他のビジネスをやろうとかそんな野心もなかった。それよりも。
――――なんだか楽しくなりそうな気がする。
くるりと天然パーマの美青年。騙されるならそれもまた良し。
「じゃあ、まあそういうことにするか。私はあまり気が進まないが……。そうだ、野波君、このノートに今日からあったことや気の付いたこと、つまり日記みたいなの書いておくんだ。突然なにかを思い出したとか、そういうのも。何もなくても少しでもいいから書いておいて」
越崎はB5版の何の変哲もないノートを零に手渡す。そのノートに視線を落とし、「わかりました」と頷く。指に力が入ったのか、ノートの両端に皺が出来た。