聖水
「シスター!」
「シスター・アモス!」
晴れ渡る青い空に、降り注ぐ暖かな陽の光。
白いシーツを物干し竿に干していたイノセントドレスの女性の背中へと、子供達が小さな手を伸ばして抱きついてくる。
「あら、悪戯っ子は誰かしら?この声は……ラフィにミカね?」
「きゃはは!正解正解!」
「凄いねシスター!なんで分かったの?」
「シスターはね、なんでもお見通しなのよ」
振り向いたアモスは両手を広げると二人の子供達を思いっきり抱き締める。
子供達の喜ぶ大きな笑い声。
この孤児院にこの二人と他の子供達が来て一ヶ月経った。
内戦の続く国から避難をしてきたせいで、心に多くの傷を持った子供達は最初の頃は警戒心が強かったが。
今はすっかり心を開き、この孤児院のシスター達を慕ってくれている。
「こ、こらーー二人とも!シスターはお忙しいのだから邪魔しては駄目だと言ったでしょう?」
「「えーー」」
「まぁ、いいのよ。ジャンヌ。丁度、お洗濯も終わったところだから気にしないで。それで?悪戯っ子達は運動場で追いかけっこをしていたと思ったのだけれど、どうしたのかしら?」
孤児院の年長であるジャンヌが息を切らせながら現れる。
追いかけっこの鬼をしていたのに、捕まえるべき子供達が居なくなっていたので探していたのだ。
ジャンヌから隠れるように、アモスに抱きついていたラフィにミカはにんまりと顔を見合わせて笑うと、手に持っていた絵本をアモスに見せる。
「あのねあのね、絵本を読んで欲しいのシスター・アモス!」
「この絵本を読んで欲しいの!」
「絵本なら私が読んであげるのに」
「だってジャンヌってば、へたくそなんだもん」
「うんうん、へたっぴ」
「へた……」
「まぁまぁ、そんなことを言ってはダメよラフィ、ミカ。ジャンヌはちょっと感情表現が豊かすぎて、読んでる途中で泣いちゃうから……続きが読めなくなってしまう優しい子なの」
「シスター・アモス……フォローになってません」
それは結局下手だと認めているのではないか。
確かに感情が昂ぶって、続きを読めなくなるくらい泣いてしまうけれども……悄気るジャンヌにアモスは焦る。
「あらあら、私はそれも好きよ。あなたの優しさが伝わるから。でもそうね、今日はもう鬼ごっこは止めて絵本を読みましょうか」
気を取り直すように、絵本を受け取ったアモスが校庭の端にある大きな一本の木の下へと腰を下ろす。
その前にジャンヌとラフィとミカが座れば、遊んでいた子供達も一人、一人と寄ってくる。
「むかしむかし、この国はとてもとても悪い魔物の国でした」
絵本を開き、アモスの優しい声が浸透するように辺りへと広がる。
魔物達は人を食べてしまう悪い魔物達で、特に若い子を好んで攫っていきました。
困った人々は神様にお願いをしました。
どうか悪しき魔物達をお救いください。
魔物達もきっとお腹が空いてしまって仕方がなく、人を攫うのです。
彼らのお腹を別のモノで満たしてあげてください。
そうして優しい人々の願いを聞き入れた神様は、魔物達の国に一人の聖者様を遣わせてくださいました。
清らかなる力を神様より授かっていた聖者様は、そのお力で聖水をお作りになり。
それを魔物達に飲ませたのです。
するとあら不思議、魔物達のお腹はすっかり満腹になり、人々を襲うことはなくなったのです。
神様は人々の願いを聞き入れて、魔物達をお救いくださったのです。
ばんざい。
ばんざい。
神様ありがとう。
ばんざい。
ばんざい。
聖者様ありがとう。
それ以来、聖者様がお守りくださるこの国に魔物は一人もいなくなりました。
「はい、おしまい」
子供達がキラキラとした眼差しで絵本を見ている。
そうして立ち上がったラフィが叫ぶ。
「私、絶対絶対に聖者様になるの!」
「僕も僕も!」
ミカも頷けば、他の子供達もそれに続く。
きゃははっと笑い声と共に始まる聖者ごっこ。
この国は聖者と呼ばれる神の使者を祀り信仰している。
聖者はこの国の国教であった。
「あの、ありがとうございますシスター・アモス」
「気にしないでジャンヌ。それに年上だからと気負って、私達のお手伝いをしなくてもいいのだからね」
「で、でも私は長い間お世話になっているし。こんなことしか出来ないので」
ジャンヌがこの孤児院に来たのは5年前。
この国の出身ではなかったが、育児放棄され捨てられたところを巡礼中であったシスターに引き取られてここへと辿り着いた。
この孤児院はそういった子供達を多く引き取って育てている。
「こんなことだなんて……そんなことを言わないでジャンヌ。あなたも他の子達も、この国にとって本当に大切な宝物なの。前にも言ったけれど何処かに貰われるだけが人生ではないわ。あなたは責任感が強い子から、シスターになり巡礼者となってもいいの。だから私達があなたを負担に思っているだなんて思わないで」
年上だからと下の子達の世話を率先してするのは、そうしなければ孤児院から捨てられると怯えているかのよう。
ジャンヌは今年15歳になる。
養子に貰われなかった子が進退を決める年齢でもあるので、焦る気持ちがあるのかもしれない。
孤児院では養子になれなかった子達は働く場所を孤児院で斡旋してもらうか、シスターとなる。
仕事に就けば孤児院から離れることになるし。
シスターになればまず、他国への巡礼が主なお役目となる。
どちらにせよこの孤児院を離れることとなるので、ジャンヌはそれが寂しいのかもしれない。
アモスがその寂しさを慮り心を痛めるかのように胸に手を当てて、ジャンヌの頭を撫でれば丁度その時に、教会の鐘が鳴る。
「礼拝の時間だわ。さぁ、皆さん。本日のお祈りの時間です。礼拝堂に集まりましょう」
孤児院を運営する教会の荘厳なる礼拝堂。
聖者信仰は国教とだけあって礼拝堂には溢れんばかりの信徒が集まっている。
「本日も皆様が一人も欠くこと無くお集まりくださったことを、聖者様もお喜びになられていることでしょう」
祭壇の前に立ったアモスが信徒達を見回し、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
貴族だろうと平民だろうと、身分の隔たり無く椅子に座っている。
この国は本当に、良き国であった。
アモスが信者達の前に立つシスター達に目配せをすれば、彼女達はその視線を受けて手に持っていた水差しを持ち上げる。
祭壇の後ろ、ステンドグラスに輝く白いローブ姿の聖者に捧げるように。
シスター達は祈りの言葉を口にしながら、信者達が差し出すコップへと水を注いでいく。
「皆さん、本日も聖者様のお恵みに感謝をして。どうぞ聖水をお飲みください」
コップ一杯に注がれた聖水。
「「感謝いたします聖者様」」
皆の声が礼拝堂に響くと聖水を一気に飲み干す。
そうして、礼拝は終わる。
いつも通り。
平穏無事に。
だが、今日はいつもと違っていた。
「うぐっ!ごほっ!げほっ!」
椅子に座らずに端に立っていたジャンヌが、苦しそうに激しく咳き込み、コップ一杯の聖水を飲み干せずに吐き出したのだ。
「まぁジャンヌ!大丈夫!?」
「シスター・アモス。申し訳ございません。なんだか飲み込めなくて」
まるで喉から溢れでるかのように、聖水が体の中へと入っていかなかったのだ。
こんなことは今までなかったというのに、なにが起きたのか。
聖水を全て吐き出したことが申し訳なくて、恥ずかしくて……ジャンヌはそれを隠すように、スカートの裾で溢れた聖水を拭おうとする。
「まぁ、まぁまぁ!そうなのね!それは喜ばしいことだわ!」
「あの?」
だがそれを止めたアモスが歓喜の声を上げる。
そして意味が分からずに戸惑うジャンヌの手を取り立ち上がらせると、満面の笑みを浮かべる。
「おめでとう、ジャンヌ。あなたは聖者様になったのよ」
「えっ?」
この教会では数年に一度、聖者となる者が現れる。
特別な存在として国の者達から崇められ、尊ばれる聖者。
神から与えられた預言では、聖者となる者は聖水が体に満たされた者であり、聖水が飲めなくなるのがその証なのだと、ジャンヌを私室に招いてくれたアモスが説明してくれた。
それは聖者以外には秘匿にされている事実。
ジャンヌの胸は震えるほど嬉しい気持ちで満たされた。
「皆様、喜ばしいことです。この度、ジャンヌが新しい聖者様に選ばれました」
孤児院の教室に集められた子供達の前で、アモスがジャンヌに拍手を贈る。
釣られるようにして、子供達からも拍手が上がる。
ジャンヌと変わらぬ年齢の子達からは、少しばかりの嫉妬の眼差しが向けられていた。
「ずっと一緒だった皆さんは寂しくなるとは思いますが、これからジャンヌは聖者様がお暮らしになる特別な教会へと向かうことになります」
「えぇーー」
「どうして?」
「戻ってくるの?」
「他の聖者様と一緒に国の安寧を願うために、とてもとても長い旅路の先にある教会へと向かうのです。戻って来るのは難しいでしょう。ですが皆さんの中に、ジャンヌは永遠に生き続けるのですからあまり寂しがらないで。それと新しい聖者様が決まったお祝いに、皆さんを新しい家族にと望まれるご家族の方々がいらしています。これも聖者様からの恩恵です。新しい聖者様に感謝いたしましょう」
聖者が決まると同時に今までは消極的だった養子縁組みが積極的に行われる。
聖者によって救われた魔物達のように。
聖者によって孤児達も救われる。
前回の聖者のときもそうであった。
ジャンヌは丁度、聖者の旅立ちの時期に孤児院に入ったので養子とはなれなかったが。
皆に盛大に見送られて旅立つ聖者のことを覚えている。
今度はそれがジャンヌの番だ。
子供達を救う救世主。
同じように誇らしい気持ちで胸を張り、ラフィにミカから花束を受け取ったジャンヌは子供達の顔を見る。
「いってまいります!」
立派にお務めを果たそう。
今までの恩を返し、この子達の安寧をしっかりと祈るのだ。
少しばかり寂しい気持ちを胸に抱え、皆に別れを告げて馬車に乗ったジャンヌは旅立つ。
国の門を通り、平原を渡り、深い森の中。
馬車は思ったより早くに止まった。
止まった先にあるのは神殿であった。
森に隠されるように、薄汚れて蔦の巻きつかれた元は白かったであろう神殿は長い間そこにある建物なのだろう。
所々、柱が崩れている。
アモスや他のシスター達に連れられてジャンヌはその神殿の中へと入り。
長い長い廊下を上り、下り、下り……。
気付けばゴツゴツとした岩肌の薄暗い洞窟の中を歩いていた。
シスターの持つランタンの明かりだけが頼りなく揺れている。
今、自分が上っているのか下っているのか分からない。
アモス達から離れないように歩いていれば、聖者が祈りを捧げるような絵の描かれた扉があり、シスターがその扉を開けば、大きな空洞の開けた場所が現れる。
(天国みたい……)
ジャンヌの第一印象はそうであった。
淡く青く光る見たことの花。
花に囲まれるようにして空洞の半分以上を占めている湖。
風がないはずなのに揺れる水面にドキドキと心臓が高鳴る。
初めて見る美しい景色に、ジャンヌの心は奪われる。
「シスター・アモス。ここは?」
「浄化の間よ。聖者様に選ばれたらまずここで、身を清めてもらうのが習わしなの」
こんな所に湖があるだなんて。
不思議なほど淡く輝く湖面の美しさに圧倒されていれば、それが見慣れた水であることに気付く。
「これは、聖水ですか?」
「えぇ、そう。聖者様が与えて下さる聖水よ。さぁ、中に入って」
一杯だけしか与えられない聖水。
ただの水だと疑っている子達もいたが、この光景を見ればそれが聖なる水であることを確信することだろう。
アモスに促され、戸惑いながらもジャンヌはまず足首まで浸かる。
「あの、どれくらいまで行けばいいんですか?」
「中央に柱が見えるでしょう?そこまで泳いでいくことになるわ。少し深くなっているけれど大丈夫よ、なにがあっても私達がいるわジャンヌ」
頷いたジャンヌは言われるがままに。
まず太股までを浸からせた。
そして腰。
肩を聖水に浸していく。
不思議と冷たくはなく、水を泳ぐときに感じる抵抗感もない。
不気味なほどに輝く聖水はジャンヌを受け入れ、その身を清めてくれているよう。
中央の白い柱まで泳ぎ、この後はどうすればいいのかと思っていれば、アモスの声が耳に届く。
「そこで潜ってみて」
言われた通りに、思いっきり息を吸い込んだジャンヌはその身を聖水へと沈める。
これで私は聖者となるのだ。
これで愛する教会から離れずに済むのだ。
水に沈む静寂に自分の心臓がドキドキと高鳴る音が響いている。
そしてうっすらと瞼を開いたその視界の先に、なにかが見える。
底に、そこに、なにかが揺らいでいる。
水草?
いや、違う。
海藻のように細いなにかが束になったあれは……髪の毛だ。
髪の毛。
間違いない。
揺らぐ髪の毛。
その髪の毛から顔が覗いている。
覗いた顔は、5年前に見送った聖者様の顔。
大きく口を開けた苦悶に叫ぶその皮膚がボロリと剥がれ落ちて、骨が覗く。
周りを見れば底に沈んでいる知らない人。
人。
骨。
骨。
「ごぼぼっ!げほっ!えほっ!」
ジャンヌが上げた悲鳴は聖水によって閉じ込められる。
開いた口へと入るそれを体内に取り込む気持ちの悪さ、悍ましさ!
ジャンヌはすぐに水面に顔を出す!
「シス、シスターアモッ!げほっ!たす、たすけて!あぐっ!」
息を吸う。
水面を泳ぐ。
だがどれだけ必死に手足をバタつかせても、何故だか体が重くて前へと進めない。
まるで足先から重い何かが這い上がってくるかのように!
誰かが足を引っ張っている!
いや、違う!
満たされていくのだ!
飲み込んだ聖水が!
体に入った聖水が!
この体に満たされ、重くなっていっている!
嫌だ!
嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!
沈む!沈んでしまう!
岸辺でシスター達が祈りを捧げている!
どうして助けてくれないの!
どうして!
どうして!
どうして!!
「やだ!ごほっ!やだ!シス!たすけ!」
たすけ……。
ゴボゴボゴボ……ボ……。
激しく波打っていた水面はそうして静まり返り、吐き出されていた泡も小さくなり……消えていく。
「あなたは宝物よジャンヌ。本当に本当に、大切な聖者様なの」
この国は魔物の国。
人に憧れ、人になろうとした魔物達の国。
でも純粋な人にはなれない。
どうしてもお腹が空いてしまう。
そのことを憐れに思った神様は方法を教えてくれた。
お腹が満たされる方法を授けてくれた。
ばんざい。
ばんざい。
神様ありがとう。
「あぁ、神よ。新しい聖者様をお与えくださったことを心より感謝いたします」
ばんざい。
ばんざい。
聖者様ありがとう。
祈る。
祈る。
シスター達が心より、感謝を込めて祈りを捧げる。
そうして静かなる湖面の底に新たなる聖者が沈み。
聖水は枯れることなく、民達を救うのだ。