ep68
陽子の父母と一緒に生活を始めて4カ月。
お互いに遠慮がちだったが徐々に打ち解けていった。
仕事の時間帯が違うために一緒に遊びに行くことはできないまでも
一緒にいる時間はそれぞれが思い思いに話題を提供し会話に発展していく。
一人暮らしでは考えられない日常だったものの麻相は受け入れ和んでいた。
マンションでの生活にも慣れてきていた。
余計な詮索も干渉もしない、その代わりに相互への迷惑行為は厳禁との不文律は守っていた。
同じマンションの居住者でも互いに知らぬふりをして挨拶をしないこともある。
これも一戸建てではありえないことだった。
これがマンション暮らしだと割り切ることは出来た。
梅雨入り前からの真夏の様相になり仕事は過酷そのものだった。
高温多湿のために野菜の残菜、魚の粗がただちに腐敗し始めて強烈なにおいを放つ。
雑菌の繁殖も強烈なため消毒には細心の注意を払っていた。
真夏にマスク、防塵服、ゴム手袋を着用しての作業は酷暑に拍車をかけていた。
周囲が熱中症の危険性を指摘するなかでも麻相は乗り越えていた。
仕事中は不定期に水を飲むだけ、帰路途中にスポーツドリンクを飲む。
あの時と同じ、麻相にとってのルーティーンだった。
世間が夏休みで湧いている最中も麻相は仕事を続けた。
忙しさにかまける事で陽子との約束を忘れるためだった。
ただし陽子はその事を忘れていなかった。
ベテラン清掃マンの入院が長引いていた。
若手の麻相に対する期待は高まるばかりで気を抜くことができなかった。
麻相が頑張っていても見守るしかできないもどかしさが陽子にはあった。
仕事終わりに麻相に労いの言葉をかけることしかできない。
それでも麻相はその一言で身も心が癒されていた。
父親とは偶に休日がガチ合うことがあった。
父親と一緒に外食に出かけた際には男同士の話が静かに交わされた。
その中でも父親が気に掛けていたのが麻相の将来だった。
このままバイトでよいのか正規雇用がよいのかそれぞれのメリットデメリットを並べた。
その上で今後どうするのがベストかを考えるよう麻相に促してきた。
売り手市場とはいいつつも正規雇用のハードルは高く会社は即戦力を採用したがる。
そのためには大学か専門学校で知識とスキルを身に着けたほうがよい。
さらには人的な繋がりも重要だと諭した。
ネット情報だけでは不足、直に対面すれば強固な信頼関係が作れる。
それを作るためには大学に進学し運動部に所属した方がよいと父親は助言してきた。
その父親も今の会社への足掛かりは部活の先輩の伝手だと言及した。
それが無ければどうなっていたことかと自嘲気味に語った。
それを聞いた麻相には嫌悪感しか湧いてこなかった。
不良グループに関わっていた時の理不尽な縦社会しか記憶にない。
サッカー部の時ですら麻相に目を掛ける上級生はいなかった。
対人で良い思い出はない。
そんな中でも存在感のある大人が現れたのは意外だった。
田端、牧、陽子の父母もそうだ。
信頼してよい、困ったことがあったら頼りたいと思える。
ただ、山崎が早々に病院を辞めていたことはショックだった。
山崎なりの事情があったのだと推測はできたが肩透かしを食らった格好だった。
その日も手際よく仕事を終えると早々に麻相は帰宅した。
食事と風呂を終えてリビングで父親と共にくつろいで居た。
くつろぎつつも父親はビジネス関連の書物を読んでいた。
今日はハラスメントに関する書物を手にしていた。
麻相は何気なくリモコンを握りTVの電源を入れた。
画面の中では山の中の一軒家を尋ねていく番組が放映されていた。
衛星写真をズームしていく山中の画に麻相の目は釘付けになった。
見覚えのある建物に啞然とした。
日本には似たような場所がいくつもあるものだとその可能性を捨てて眺めて居た。
取材スタッフが麓の住民に聞き込んでいると山中の一軒家の主は「タバタ」と明言していた。
それを聞いた麻相は耳を疑い前のめりになった。
まさかとの思いが強かった。
やはり田端の家だったと画面を注視した。
とはいえ田端がテレビ局の取材を受けるとは思えない。
イントロでここまで紹介されたならその家と住民も映像に出るはずだ。
田端が顔をさらすことなどあり得ないと麻相は思った。
取材スタッフの車は山間の狭い林道をたどり一軒家に到着した。
家屋の作りや周辺の景観は見たことのある風景だった。
しかし玄関回りが違っていた。
麻相が尋ねた時は農作業に使うあらゆる物が乱雑に並べられていた。
テレビ画面に映っている玄関周りはきれいに片付けられ板壁や土塀が露わになっていた。
あまりの違いに同性の別人かと麻相は勘繰った。
玄関前の畑、その周囲に石垣が積み上げられその上にも畑がある。
このシチュエーションは全く同じである。
「おや、お客さんだ。」
畑から降りてきた家主、汚れた帽子をかぶり浅黒い丸顔が笑顔を作った。
まぎれもなくあの田端だった。
「もしかして一軒家を探すって番組?」
田端は屈託のない笑顔で問いかけた。
取材スタッフが肯定すると田端は取材スタッフをねぎらった。
「ここまで大変だったでしょう。何にもないところへようこそ。」
田端の略歴を説明するナレーションが入った。
大学卒業後に企業に務めていたが祖父の死を受けてこの家と田畑を相続した。
それから十年、ここで農家として生活している。
この説明は以前にも聞いていたので目新しさはなかった。
「あれェ、お客さん。えっ?テレビ局ですかァ?やだァ、お顔作ってないのにィ。」
田端の背後から女性の声が聞こえてきた。
その緩い口調は聞き覚えのあるものだった。
農作業帽にトレーニングウェアを着た女性が畑から降りてきた。
ピンクの農作業帽を脱ぐとセミロングの髪がこぼれ落ちた。
「ヤマザキさん!?」
麻相は噴き出した。
日焼けの頬が若干こけていたがあの顔は山崎のものだった。
「あっ?知ってる人?」
傍らにいた父親が尋ねた。
麻相は一呼吸おいて答えを準備した。
「あの、今年1月まで市民病院に居たお医者さんです。」
「へええ、今は農家さん?」
父親もテレビ画面を覗き込んだ。
当たり障りのない世間話がしばらく続くと取材スタッフが山崎に対し{奥さん}と呼びかけた。
「違いますよォ。農業体験でここで勉強させてもらってますゥ。奥さんじゃないですゥ。」
山崎はやんわりと否定した。
山崎の略歴を説明するナレーションが入った。
大学病院に勤務していたが患者に寄り添えない自分に嫌気がさして医師をやめた。
違う世界に行ってみたいと友人に相談したところ農業体験を勧められ田端を紹介されたのだと。
「こんな医者が居たら患者さんは迷惑ですよねえェ。」
山崎は笑顔で答えた。
以前の笑顔とはまるで違う、屈託のない笑顔だった。
田端と山崎が横並びになり日常生活の話題になった。
都会暮らしとは全く違う世界に戸惑うことが多いと言っていた。
日用品を買うにも気軽に買えないので計画的にしなければならない。
野菜は自給自足、肉魚米と調味料は一週間分をまとめ買い。
昆虫、野生動物に出会うたびに悲鳴を上げ、その度に田端が追い払ってくれる。
慣れるまで何年かかるかわからないと自嘲していた。
天候により農作物の出来不出来が左右されるので収穫量の予測が困難。
それでも自分が働いただけ収穫量が増えるので手を抜くことが出来ない。
誰かに押さえつけられて仕事をしているわけではなく自分自身が生きる為に働いている。
お金さえ稼げば何とかなる、そんな都会生活とはまるで違う。
他では味わえない充実感があると山崎は自信ありげに答えていた。
画面から伝わってくる印象が以前の山崎とは違っていた。
青田市で会った時はどこか着飾っているように感じた。
画面越しの山崎からは小学生の様な無邪気さがあると感じた。
何があったのかと麻相は案じた。
市民病院勤務を切り上げて早々に大学病院に戻ったのも変な話だった。
大学病院に戻り研究医になると言ってたのがまるで違う方向へ行ってしまっている。
しかも田端の元で就農体験だからよりによってだ。
陽子もこの心境の変化を理解しきれずにいた。
番組は進み、田端は母屋の周りを案内した。
山中でも女性が暮しやすいようにあれこれと田端は手を尽くしたようだった。
電気ガスは麻相が見た当時のままだったが積み上げられた薪の量は増えていた。
二日に一回だった風呂を毎日入れるよう火源と水源の確保には気を遣っている。
トタン屋根にはソラーパネルが取り付けてあり、蓄電池に貯えるように変わっていた。
母屋内の映像も映し出された。
以前は何もなかった座敷は山崎の居室へと変貌していた。
ワーキングデスク、ベッドは山崎が持ち込んだもの。
カーテンとカーペットは薄いピンク色で統一されていた。
古びた化粧台は田端の祖母が使っていたものを山崎が受け継いだ。
メイク用品、ファンデーション、日焼け止めに並んで殺虫剤、蚊取り線香まである。
ワーキングデスクの上には野菜作りのノウハウ本、山菜、キノコに関する本も積み上がっていた。
真新しい本もあれば背表紙が色あせた本もある。
「インターネットがないんですよォ。調べものするにも紙に頼るしかないですゥ。
スマホの電波はとりあえず届きますけどォ、不安定なのでェ。
ネットがない不便さにどこまで耐えられるかですよねェ。」
山崎は底抜けに明るく答えていた。
画面が田端に変わると山崎がここに来る経緯を話した。
「友人から話を聞かされて、就農したい子がいるけど面倒見てくれないか?って。
反対したんですよ、無理だって。」
突き放すかのような言い草だった。
「都会育ちの者が田舎暮らしをする苦労は俺自身がやってきて、知ってますからね。
きつい仕事をやってもらったら一カ月もしないうちに逃げ出すよってことで引き受けたんです。」
「迎えに来てもらったら私だったのでェ、話が違うとお友達と喧嘩になりましたよねェ。」
画面の外から山崎の声だけが聞こえてきた。
「てっきり男だと思ってましたから。
しかも都会育ちで土弄りの経験なしでどうすんの?ってね。」
カノジョを紹介されたのではと番組スタッフが合の手をいれた。
「そうだとしても、よりによってですよ。
こんな田舎の農家は都会の女性が暮すのは大変、考え物ですよ。
とにかく、農作業を辛くてもやってもらうことで・・・・・」
「渋々、でしたよねェ。あの時の顔は忘れませんよォ。」
「そっから5カ月たってもこうして農作業に汗を流してくれてますから。
都会育ちのお嬢さんを舐めてました、ほんと、山崎さん、ごめんなさいです。」
これは作り話だと麻相と陽子も分かっていた。
事前に打ち合わせしいていたのか即席の問答を力で成立させたのかは分らない。
阿吽の呼吸で{当時の事情}を語っていた。
場面が変わりいくつかの畑が映されると作付作物を田端が紹介して回った。
その田端の姿勢、言葉尻は自信にあふれていたがどこか不安げでもあった。
一人で冬を越すのは慣れているが二人となると今まで通りにはいかない。
今年は何をどこまで準備しておくのか手さぐりだと述懐していた。
次の場面では山崎に単独インタビューする体だった。
この時ばかりは山崎は顔を作ってきていた。
「我儘やりたい放題だった都会暮らしは何だったのかなァ?と思うときはありますねェ。
時々、(都会生活に)戻りたいと思いますよォ。
コンビニも無いからちょっとそこまでなんて無理ですからァ。
でもですねェ、ここでは都会とは違った刺激がありますからァ。」
終始笑顔でありながら悟り澄ましているようでもあった。
取材スタッフからこの農業体験をいつまで続けるのか、いつ終えるのかと問われた。
「いつまでですかねェ、田端さんからお許しが出るまでですかねェ。」
山崎は言葉を濁した。
それは田端と(結婚も)考えているのか?とスタッフが尋ねた。
「そうかもしれませんねえェ。」
山崎は照れ笑いをうかべて答えた。
ーー山崎さん、本気かな。でもこのシチュエーションならそうなるよねーー
陽子は呟いた。
麻相は理解に苦しんだ。
昨年12月、あの事件の最中での田端と山崎は犬猿の仲だった。
何がどう急転回したのかと麻相は混乱した。
田端の元へ就農体験しに行ったのが五カ月前とのことだった。
麻相が田端の家を訪問した直後になる。
ーー友達の紹介というのは嘘よねーー
ーー俺が行く前に山崎さんからアプローチがあったのかな?ーー
ーー田端さんと一緒に生活したいと?ーー
ーーそう考えるしかないーー
ーー山崎さんが一方的に?告った?ーー
ーー田端さんからはアプローチは掛けないよーー
麻相はあの時の会議室でのやり取りを思いだしていた。
ーーああ~そんなことがあったんだーー
陽子もその場面を追認した。
あの日の状況では田端と山崎が付き合うとは到底思えなかった。
ーー何があったんだろ?訳が分からないーー
あの二人に見えない力が働いたとしか解釈できなかった。
ーー俺にダンマリ決めこんでいたのかな?ーー
麻相が訪れた際にはそんな雰囲気はみじんも感じさせなかった。
間も無く山崎が引っ越してくるならばそのことを話題にしても良さそうなものだった。
ーー山崎さんの本気度が分からなかったからじゃない?ーー
麻相は混乱しつつも番組の終焉をみていた。
取材スタッフが帰っていく様を見送る一軒家の家主。
それを車の後部窓からの映像で締めくくるのがお決まりのパターン。
二人が肩を並べて手を振る様は画になっていった。
「末永くお幸せに」
結婚が決まっているかのようなナレーションに麻相は噴出した。
「いやいや、それは無いって。」
早計すぎると麻相は指摘した。
ーー田端さんと山崎さん、お似合いじゃないーー
陽子は肯定していた。
父親は感心しきりといった雰囲気で番組を見続けていた。
「若い農家さん夫婦、いいじゃないか。なあ、瞬君。」
「え、あ、まあ、そうですね。」
父親の意外な反応には相槌を打つしかなかった。
田端は40代前半、山崎は30代前半と年齢的には若干離れている。
それもあってか性格が合わないことは分かっていた。
二人がどうやって擦り合わせをしたのかが分からない。
この五ヵ月間の共同生活を想像しきれなかった。
ーー山崎さんはその道を選んだのよねーー
陽子は納得したかのように結論付けた。
二人の相性が気になったが新しい未来へと踏み出した田端と山崎が羨ましくもあった。
新しい未来との陽子の思いを麻相は受け取っていた。
番組が終わるのを見届けつつも麻相はある考えを実行に移すか否かを思案していた。
それには麻相一人の判断だけでなく周りの大人の承諾も必要だった。
陽子もその考えには肯定も否定もできずにいた。




