ep62
ドアの貼り紙を見た。
陽子は落胆しつつ帰宅した。
ー逃げたー
面倒を見切れないとの気持ちが強くなっていた。
何処へ行ったのか見当がつかなかったこともあり不信感が募った。
帰宅後はリビングのソファに体を預けて途方に暮れていた。
母親が帰宅するなり陽子に尋ねてきた。
「麻相君、どうしたの?」
母親の口から麻相の名が出たのは久しぶりだった。
「麻相君、三日くらい休むらしいけど、理由を聞いてる?」
陽子は唖然とした顔で見返した。
母親は失言したとばかりに顔色を無くした。
「スーパーで働いてるの隠してたんだよね?」
見透かしていたとばかりに陽子は言い放った。
「バレたか、っていうか、知ってたの?」
陽子は頷いた。
「麻相君に黙っててくれって頼まれてたのになあ。何で知ってるの?ラインとか?」
麻相の気を辿ってアパートに押し掛けたとは言えなかった。
「避難所からいきなりいなくなったから。追及してやった。」
厳しい口調になっていることを陽子自身も自覚していた。
そうとでも言わなければ自分が納得できなかった。
そんな陽子の変化を母親は感じ取っていた。
「喧嘩でもした?」
「そんなんじゃないよ。」
陽子は否定したが険悪さが顔に漂っていた。
「ふ~ん、仲がいい証拠だよねえ。」
母親は夕食の準備をしつつも陽子の様子を窺っていた。
きつい口調とは裏腹に意気消沈とばかりにソファに身を預けていた。
陽子は未だに憤慨していた。
あそこまで無視を決め込む理由はないはずだった。
話したくない何かがあるのは分かっていたが完璧にブロックされてしまい覗くことができない。
話したくないなら理由くらい教えてくれてもいいはずだ。
麻相が直に喋るか心を開くかのどちらかだと陽子は苛立っていた。
「今ねえ、清掃マンが一人病気で欠けててみんなで分担してるのよ。」
母親はソファに向かって話しかけた。
「麻相君にも仕事が振らたけど、働き始めて一カ月も経ってないから相当にキツイよね。」
そんなことは分かっていると陽子は返事をしなかった。
「麻相君が休んだからさらにキツイ仕事になってて皆が大変なのよ。
このまま辞めちゃうんじゃないかって。若い人が入ってきたって期待されてたのに。」
それを聞いたところで陽子はどうすることも出来ない。
一昨日の無気力振りには怒りを通り越して呆れ果てていた。
こんなことを繰り返されるくらいならば木村の誘いを受けたほうがよいと思えてきた。
学生会役員になって多忙になろうとも麻相の知ったことではない。
自分のキャリアを積む第一段階と考えれば有意義な時間を過ごせると陽子は思った。
今日も昼休みには木村からの熱心な誘いを受けた。
相変わらずの熱い口調、時間に追われるように動き回っていた。
木村の常に前向きな姿勢は麻相とは真逆だった。
悩みなどないのではないかと思えるくらい陽気な性格は学生会役員に相応しい。
あんな風に自分もなりたいと陽子は思うようになっていた。
「こんな時に相談出来る身近な大人がいないのは辛いよねえ。」
母親は誰に聞かせるでもなく呟いた。
それを聞いた陽子はあることを思いだした。
「旅行にでも行って気晴らしが出来てるとねえ。三日だからなあ。」
麻相はあの時の大人に会いに行ったに違いない。
麻相と同じ力を持つ大人、しかも同性でなければならないはずと陽子は気が付いた。
そのための三日間だと。
三日後、もう一度だけと陽子は思った。
ドアの貼り紙は剥がされていた。
帰ってきている。
部屋からは麻相の気が漏れて来ていた。
大学からの帰り道、再び陽子は麻相のアパートを訪ねていた。
デニムパンツに薄緑のブラウス、いつものトートバッグを肩から下げていた。
ドアチャイムを押すと即座にロックの外れる音がした。
麻相が出迎えてくれると思ったがドアが開かなかった。
仕事で疲れてふて寝をしているのかと4日前と同じ場面を想像した。
苛立ちをおさえつつ陽子はドアを開けた。
麻相はテーブルに向かい書類に目を通していた。
「こんにちは。」
こんなことに力を使うことを陽子は危うんだ。
「いらっしゃい。」
抑揚のない声音だったが機嫌は良さそうだった。
麻相はこちらを向くでもなく書類だけに視線が注がれていた。
部屋に入り込むと麻相の背中越しに書類を覗き込んだ。
テーブルには何枚もの書類が広げられ傍らにはボールペンと朱肉が置いてあった。
書類には署名と拇印が押され右端によせられていた。
収支報告書と表題のある書類には数字がびっしりと並んでいた。
その書類の数字を指でなぞり、ペンで印をつけ、マーカーで下線を引いていた。
「それ、お父様の?」
「親父の会社の清算書。相続の問題もあるらしいからほったらかしにできない。」
積み上げてあるだけだった書類の整理を麻相は始めていた。
心境の変化があったと陽子は推測した。
ただ麻相は心をオープンにしていないので真意分からなかった。
「承認書にサインしなければ俺の仕事は終わらない。急ぐ必要はないとは言っても今年中にはね。」
明るく張りのある声に陽子は安心した。
「三日間、田端さんちへ行ってた。色々と教えてもらってた。」
「そう。よかったじゃない。」
とはいえ四日前の不誠実ぶりをなかったことには出来ない陽子は少々憮然と答えた。
麻相は手にしていたペンを置くと陽子に向き直った。
陽子はその場に立ったまま麻相を見下ろしていた。
麻相とは同じ目線で話す事を心がけていたが今の気持ちがそのまま態度に現れていた。
麻相の対応次第では罵詈雑言を言い放ち部屋を出ていくつもりだった。
そして二度と麻相とは会わないようにしようとも思っていた。
「あのさ、森本さん。」
麻相は改まって喋り出した。
陽子を見上げるその顔には不安感が漂っていた。
「夏休みはいつから?」
「夏休み?どうして?」
怪訝そうな陽子の返事に麻相は戸惑った。
息をのみ込み次の言葉を麻相は用意した。
「・・・・・・予定は入ってるの?」
「今のところは、ないけど。」
それを聞かれて陽子は期待を抱かずにはいられない胸騒ぎを覚えた。
「良かったらさ、りょ、旅行、に、い、行かない?」
麻相はどもりながらも言葉を繋いだ。
期待していなかったとはいえそれ以上の誘いに陽子の心は波打ちだした。
「浅草に行きたいんだ。一緒に行かない?」
「ア、サ、クサ?」
いきなり虚をつかれた。
舞浜のテーマパークがデートの定番スポット、そこだと陽子は思い込んでいた。
「浅草、って東京の?」
「うん。一度でいいから見に行きたいんだ。」
渋好みのスポットだけに意外性が高かった。
その時、麻相の心がオープンになりすべての思念が伝わってきた。
麻相が祖母と暮らしていた時、祖母の思い出話として浅草が出てきた。
賑やかで楽しかったと祖母が懐かしんでいたのを麻相は覚えていた。
麻相にとっては憧憬の地なのだった。
むしろ舞浜のテーマパークには麻相はトラウマを抱いていた。
憧憬の地と嫌悪する地、はっきりとした思念が伝わってきた。
そして不安感が御触れていた。
自分への自信の無さ、誰にも迷惑を掛けないとの決意が入り混じっていた。
他人を巻き込むことを極端に恐れ嫌っていた。
全てではないのしても麻相は心の内を覗かせてくれていた。
「うん、行こうよ、アサクサ。」
陽子は微笑みながら腰を下ろした。
「え?いいの?東京だよ?」
目の前の麻相は顔を紅潮させて驚いた。
「うん、東京。」
「だって一泊しないと無理だよ。」
「そう。お泊り。」
「それでいいの?」
麻相は予想だにしなかった返事に目が躍っていた。
「いいよ。お泊り、一緒に。」
それが当たり前とばかりに陽子は平然としていた。
麻相がここまで思い切ったことを言うのは珍しいと陽子は思った。
この心変わりは田端がけしかけた事だと麻相の記憶が語っていた。
田端がそこまで世話好きとは思えなかったが麻相の背中を押してくれた。
これで麻相は前向きになれるかもしれないと陽子は期待した。
麻相が陽子に対し遠慮していた事も伝わってきた。
陽子の将来を最優先に考えていてくれたことが陽子は嬉しくもあり、余計なお世話だった。
その程度の事で自分の夢を諦めたりはしないと麻相の配慮には楯突いた。
「色々と心配してくれるのは嬉しいんだけど、心配無用。せっかくの夏休みなんだから楽しもうよ。」
陽子は明るく言い放った。
「でも、おじさん、おばさんに何て言うの?」
麻相は未だに半信半疑だった。
「友達と旅行に行くって言うに、決まって・・・・・・あ、無理。」
麻相のバイト先が母親の勤め先と同じだったのが懸念材料だった。
麻相の休暇の日取りと陽子の旅行日程が同じであれば一緒であることは容易くバレてしまう。
母親を言い含めて父親に黙っていてもらうか、親公認の仲にしてしまうかのどちらかだと陽子は思案した。
とにもかくにも今夏は麻相と一緒の旅行だと陽子は決めた。
「それはなんとかする。夏休みらしい夏休みは久しぶりじゃない。」
部活と受験勉強に費やした高校時代がむしろ懐かしいと陽子は思った。
「生協で旅行を調べてくるね。計画を立てなきゃね。」
「じゃ、俺、駅前の旅行会社でパンフレットをもらって来る。」
「お金は・・・・・いくらかなあ?」
「とりえあず10万円かな。宿泊代金が結構しそう。」
「インバウンドで予約がとりにくいらしいから。早めの予約だね。」
陽子は思案した。
「10万円かあ、私もバイトしようかな。」
学費、通学費は親に出してもらっている。
旅行費用までは出してもらえないと陽子は推し量っていた。
適当なバイト先を見つけて夏休みまでに予算分を稼ごうと陽子は決意した。




