ep59
4月下旬、第二段階のみきわめで二回も落ちた。
追加教習を受けて三回目で卒検に進み、ギリギリの成績で卒業した。
バイト休日を利用して運転免許試験場に行き本免試験は一発合格。
麻相は運転免許を取得した。
ひとつ片付いたと麻相は肩の力を抜いた。
運転免許は身分証明書の代わりであり、就職を容易にするための資格証でもあった。
麻相の懐具合いでは車を買うこと、所有するのは無理だった。
正規雇用かそれに近い待遇になり所得が増えない限りは遠い夢だった。
レンタカー、カーシェアもあるが必要になる時が来るのか分からなかった。
どのみち車の運転する機会はそうそうはないと割り切っていた。
父親の会社の清算がすべて終わったと弁護士から連絡があった。
海外の口座に入っていた運転資金の7割りは回収できたが残り3割は回収不能だったという。
色々と差し引かれて麻相瞬名義の口座には300万円弱が振り込まれた。
以前聞いていた話とはずいぶんと違うと麻相は思った。
年間3000万円強を動かす仕事と聞かされていただけに残金がそれだけだったとは意外だった。
麻相の口座には繰り越し分との合計で400万円少々、これはサラリーマンの年収程度と弁護士は言った。
一家族三人ならばこの金額を一年で使い切る程度だから考えて使うようにとも言われた。
これにより父親と弁護士との間での契約は満了となった。
承継人である麻相が満了を示す書類に署名をした。
続いて白根町四丁目の土地に売買委託の契約をした。
陽子の父親の指導もあり隅々まで読み込んだ。
疑問があれば弁護士に質問する、腑に落ちなければ陽子の父親にも尋ねた。
契約締結後はクレーターの埋め戻しが終わるまで事態が動かないので静観するしかなかった。
白根町四丁目被害者団体の集会にも時々参加していた。
ご近所付き合いとはいえその後の顛末が気にならないわけがなかった。
今も避難所には生活復旧の目途がたたない7世帯23人が生活していた。
皆が経済的理由から避難所生活を選択するしかないと報告があった。
朗報だったのは白根町四丁目のクレーターの埋め戻しの目途がついたことだった。
国と土木工事業者との折り合いがつきゴールデンウイーク明けから始まる見込みとされた。
あの{事件}の最中で{逃げ遅れた市民}の活躍は一部のSNSで話題になった程度だった。
病院前の戦車を行動不能にしたことが文字情報だけで流布された。
それはリアルタイムの情報ではないため信憑性が怪しいとネット民から揶揄された。
それはその現場を映した動画、画像もネット上に上がらなかったせいでもあった。
犯行グループからは犯行動機は曖昧かつ荒唐無稽なものだとマスコミ各社が報道した。
精神鑑定を行いしかるべき施設に収監して更生させる。
犯行グループの一部は逃走中、依然として行方が不明。
青田警察署署長の所在も不明なまま引き続き捜索を継続、これが政府発表のすべてだった。
あの時、あの場所に4人は居なかったことにされていた。
これが牧の言うところの【調整】なのだ、大人の事情というものだと麻相は解釈していた。
バイトを始めて一カ月も経たないうちに麻相は夏服で作業をしだした。
気温が上がっただけではなく麻相の運動量の多さから長袖では居られなくなったためだった。
その際に半袖から覗く右腕の傷痕が職場で話題になった。
半年前の{事件}の際に同級生を庇って撃たれた傷だと事情通のおば様たちは囁いた。
それ以前から麻相と陽子の図書館デートはおば様たちの間で周知されていたこともあり、
二人の関係は親密なものだと噂されるまでになっていた。
陽子の母親はそんな噂話に乗るでもなく否定するでもなくやんわり受け流していた。
当事者たる麻相は友達ではあるがカノジョではないと否定するだけだった。
そうした中で仕事上の変化があった。
鮮魚、精肉のブース掃除を担当していたベテラン清掃マンが病気のため入院することになった。
他の清掃マンが担当することになるのだが勤務シフトが回らず、どこかで抜けが出てしまう。
かといってバイト募集を掛けても即座に応募があるとは限らない。
病気療養明けのベテラン清掃マンの復帰場所を確保しておくことも必要だった。
バイトの増員ではなく現在いる人員が掛け持ちすることでしのぐことになった。
そのため麻相は鮮魚ブースの清掃を週一回だけ担当することになった。
それ以外の曜日は他の清掃マンが鮮魚、精肉ブースの清掃を受け持つ。
他の清掃マンが抜けた穴は麻相が受け持つこととなり、余分に仕事をこなすことになった。
今までの6時から9時の勤務では仕事が片付かないので延長は確実だった。
延長分のバイト代が上乗せされるが仕事の厳しさが増すのが気がかりだった。
陽子の母親からは心配された。
鮮魚ブースの清掃は清掃経験が半年程度ある者が数日の教育を受けて担ってきた。
麻相の場合はいきなり本番になるので慎重な作業をと忠告を受けた。
魚のあらやわたは残菜とは比べ物にならないほどの悪臭を放つので要注意と付け足した。
生ものを扱うために掃除の手順が細かく、今まで通りでは通用しない。
時間ばかり過ぎていき開店時間が迫ってくると焦りから手順通りとはいかなくなる。
それでも手順を守らないとやり直しになる。
鮮魚ブース前はガラス張りであり客の目線に曝される。
客の目の前で魚の解体、切り分けが見せ場であり鮮魚担当の独壇場だった。
にもかかわらず朝一から掃除中では鮮魚担当の顔に泥を塗る行為。
清掃マンとして恥ずかしいと教えられていた。
開店前に終えておかなければならない仕事を優先すること。
開店後でも出来る掃除を後回しにするスケジュールが組まれた。
麻相が鮮魚ブースの清掃に入る際は出勤後の一番仕事にと指定された。
ウロコ一つも許されないほどの気配りと丁寧さが求められた。
次亜塩素酸消毒液の使い方一つでもコツがある、ばら撒けばいいというものでもない。
マスクと消毒液の匂いで眩暈がしたかと思えば、バケツを開けると汚物と腐敗臭に襲われた。
気が滅入りそうになりながら消毒と水洗いを繰り返す。
教わった手順どおりに清掃を行ったが気配り、目配りが出来ていなかった。
時間差で出勤してきた鮮魚担当から苦情が来た。
副支店長の監視のもとに清掃をやり直すはめになった。
失敗したとの後悔の念が強く、さらには鮮魚担当の言動に苛立っていた。
人に聞こえるように麻相にしつこく注意をしていた。
むしろ罵るといったほうがよいくらいの雑言だった。
副支店長はそれを嗜めたが鮮魚担当は冷徹に吠えまくった。
事情は分かっていたが新人にベテラン並の仕事を期待するのは無理だと分かるはずだ。
その言い草はパワハラ、理不尽だと麻相は腹が立っていた。
防塵帽とマスクを着けていた為に怒りの形相は気取られなかった。
鮮魚担当とは目を合わさずに黙々と言いつけられた仕事をこなした。
ようやくの事で鮮魚ブースが終り次の仕事に取り掛かった。
やり直しの時間だけ押してしまい他の箇所の清掃は開店に間に合わなくなった。
焦る気持ちを抑えて手早く動くことだけを考えた。
店舗外周とトラック搬入路の掃除が終わるとようやくのことで帰れた。
その時にはすでに12時近くなっていた。
苛立ちは収まりきらなかった。
仕事終わりに休憩室、売り場に顔を出すのも嫌になっていた。
足早に退店すると途中のコンビニで弁当を買った。
他所で弁当を買うのはバイト先への当てつけ、自己満足のためだった。
アパートで弁当を食べ終えたものの何もする気が起きない。
ふて寝しようにも気持ちが苛立ってしまい呆然と天井を眺めていた。
どうすれば手順通りにこなせるのか把握しきれない自分が悔しかった。
新しい仕事だからしょうがないと言い訳する気持ちにすらなれなかった。
あんなことがいまで続くのかと気が滅入っている。
とはいえ気分転換の方法が思い浮かばない。
ー壊せるものがあるなら叩き壊したいー
そんな気持ちがわき上がってきていた。
危なすぎると麻相は自分に言い聞かせた。
こんな気持ちであることを陽子には知られたくない。
こんな気持ちのまま陽子と会いたくない。
陽子と同じ空間にいたら陽子を壊したくなるかもしれない。
危なすぎる感覚をどうすれば消去できるのか見当がつかなかった。
今週は未だに陽子は来ていなかった。
アパートには週一で顔を覗かせるのだが、それは今日か明日かは予想が出来ない。
このまま部屋に居てはダメだと麻相は思った。
スウェットに着替えると部屋を出た。
自転車にまたがると目的地も定めずにペダルを漕いだ。
ただ一心不乱にペダルを漕ぎ続けて自分の欲望を拭い去ろうとしていた。




