ep57
築40年超の木造アパート、6畳ワンルームの室内はリフォーム済みだった。
IH調理器具、冷蔵庫、洗濯機、エアコンが据え付け済み。
テレビ他の家電品は入居者が自前で準備する。
風呂はガス湯沸かし器のためプロパンガス業者との個別契約が必要。
電気料金、水道料金も同じく。
インターネットは地元プロバイダーとの契約のみ。
見た目は取り繕えてもアパート自体の古臭さはそこかしこにあった。
契約する際に弁護士を保証人として立ち合わせた。
地主は直接関与せず仲介業者にアパートの管理運営を任せる形態との説明だった。
その仲介業者に対し弁護士は質問をいくつか投げかけた。
おそらく弁護士は想像していたはずの事故物件であると仲介業者は明言した。
高齢者が孤独死した現場であり内装の模様替えも含めて手を尽くした。
それでも借り手が見つからないので家賃を下げたようだった。
事故物件ゆえに思いとどまるよう弁護士は麻相に促した。
今の麻相にとってはそれに目を瞑ってでも安さを優先したかった。
半ば強引に契約するとガス水道電気の契約とその手順、引っ越し期日と段どりを打ち合わせた。
電気水道ガスの契約はやむ無しだがインターネット契約は止めた。
陽子、陽子の父親か弁護士とのラインでのやり取りだけなら通信量は知れている。
現在はスマホの基本プランのみのモバイル通信のみでやりくり出来ていた。
Wi‐Fiの必要性を感じなかったこともあり余計な出費を避けたかった。
徹底して切り詰めた生活をしないと厳しくなると麻相は自覚していた。
引っ越しの期日はあえてその日を狙った。
それが終わり住所変更を済ませると身の回りの小物の買い足しに時間を費やした。
生活基盤を確保すると就活に勤しんだ。
正規、非正規雇用を考えていくつかの会社、業者をあたってみたが時期が悪すぎた。
どこも新卒社員を迎え入れる準備に入っていたせいもある。
今頃入社志望と怪訝な顔をされることもしばしばで門前払いを受けていた。
面接までこぎつけても、履歴書を一瞥するとやんわりと断られた。
理由は明かされず意味不明な御託を並べて追い払われた。
青田市内だけでなく池口市内、坂道市内の会社、町工場の求人に応募してたが結果は同じだった。
売り手市場と言われつつも世間の冷たさを感じていた。
弁護士の勧めもあり麻相は自動車学校に通いだした。
正規、非正規に関わらず採用条件に運転免許要とある職種がそこそこあったのも麻相の背中を押した。
免許取得まで25万円から30万円かかるのは痛い出費になる。
それでも免許無しで門前払いを受けるよりはましと考えることにした。
そんな中で二次試験中期日程の結果が出たと陽子からラインが届いた。
陽子は無事に国立大に合格した。
父親からも感激と感謝の言葉が麻相へ送られてきた。
麻相は心の中で祝った。
森本家では祝宴が行なわれているはずだと想像した。
その翌日、市民体育館に来たであろう陽子からラインが届いた。
「どこへ行ったの?」
怒りの顔文字付き、相当に怒っていることが伝わってきた。
「転居した。今は車校に通ってるので忙しい。」
これだけの返信をした。
以後は陽子からのラインは無視し続けた。
住む世界が違うのだから別れなければいけないと麻相は決意していた。
これ以上に付きまとうのも嫌であるし、余計な心配も苦労も掛けたくなかった。
麻相はバイトを探すことにした。
生活費を稼がなければ日々の生活が成り立たない。
バイトの募集はそこかしこにあるが麻相に何が出来るのか分からなかった。
応募したとしても断られるのではとの先入観だけが先走ってしまう。
働く意欲が無くなる前にと麻相は気ばかりが焦っていた。
4月に入り麻相はスーパーのバイトで働きだした。
アパートからほど近いスーパーが清掃係を募集していたので応募した。
ここでも断られるかと不安はあったがあっさりと採用された。
ところが陽子の母親が働いているスーパーだったことに気付くのが遅かった。
バックヤードに掲示してある勤務シフト表にはレジ担当10名の欄に{森本真弓}の名があった。
清掃係の欄には他8名の名とともに{麻相瞬}と名が新たに表示された。
同じ職場に居るとバレるのは時間の問題だった。
しばらくの間、麻相は早朝6時から9時までのシフトになった。
レジ係とは勤務時間にズレがあるので顔を合わせることは無いと思い込んでいた。
慣れない仕事だった。
掃除方法はマニュアル化されて手順が厳密に決められていた。
手順が違っても結果が同じならばとやってみた。
見る者が見れば手順の違いが分かるようだった。
掃除係の先輩からやり直しの指示が出ると最初からやり直した。
あれこれと手間取り先輩からのチェックが終わると8時半を回っていた。
そのころにはレジ担当従業員の出勤時間になっていた。
休憩室の賑やかさに嫌な予感はあった。
目ざとく見つかると母親から声を掛けられた。
麻相はここまでの事情を話した。
陽子には転居先もバイトの件も黙っているように頼みこんだ。
真意を隠しうわべだけの理由にしたが理解してもらえるか不安はあった。
母親は表情を変えずに聞いてくれていた。
概ね受け入れてくれたと解釈した。
しかし陽子の力をもってすれば母親の脳裏を覗くことは簡単だろう。
あの住処がバレるのは時間の問題だと麻相は覚悟した。
バイトが終われば車校へ行き、昼食を挟んだ前後に講習を受けていた。
ようやく仮免を取ったものの路上教習は苦難の連続だった。
一つのミスが人命を奪うと教官から諭され分かってはいても麻相はミスをやらかした。
いきなりブレーキを踏まれ困惑している最中に教官からの冷徹な{お言葉}。
冷や水を浴びせられ凹んだ。
いつもの事と気持ちを切り替えようにも引きずってしまう自分がいる。
こんな時に陽子ならどんな言葉を掛けてくれるのかと夢想する。
陽子の存在を切望してしまう自分を情けなくなっていた。
3時過ぎにアパートに戻ると呆然としたまま倒れ込んだ。
体力的には余裕はあるが掃除と教習の二つに精神的に打ちのめされていた。
部屋から外に出る元気がなかった。
頭の中にモヤモヤしたものがこびりついて消えていかないのだった。
5時を過ぎるころに炊飯器をセットして夕食のおかずの買い出しに出かける。
陽子の母親が退勤したのを見計らったようにバイト先のスーパーへ。
惣菜が値下げになる頃合いを狙ってのことだ。
夕食を終えると、シャワーを浴び明日の出勤に備えて早々に寝床に入る。
こんな単調な毎日だった。
弁護士からもらった書類にはほとんど目が通せていなかった。
委任状と同意書に記名しなければ事が進まないことは分かっていた。
たとえ内容を精査しても麻相の意思で変えていくことはできない。
弁護士の描くロードマップに従い精算処理に同意していくしかなく自棄になっていた。
バイトと教習とで打ちひしがれた麻相にとって難解な言葉の理解と数字の照合は無理があった。
折り畳みテーブルの上に積まれたまま嵩が増していくだけになっていた。
今日も凹んでアパートで寝転がっていた。
卒検までもうひと踏ん張り。
あの憂鬱な時間から解放される。
それが終われば県運転免許試験場での本免試験が待っている。
よほどのヘマをしない限りは合格できる。
麻相にとっては初の【国家資格】になる。
そう思いつつ時計を眺めた。
時計は5時、米を研ごうとしていた時だった。
ドアチャイムが鳴った。
弁護士かアパート仲介業者が書類を届けに来たのだろうと鍵を開けた。
その時、険悪な気を感じた。
麻相の息が止まった。
扉を開くと陽子がそこに居た。
朱鷺色ブラウスに黒ベストを着用し細目のデニムパンツにトートバッグを掛けていた。
ショートボブはそのままだが顔のメイクで美白が際立っていた。
どこをどう見ても女子大生の雰囲気だった。
驚き慌てふためく麻相を他所に陽子は麻相の顔をまじまじと眺めた。
麻相は慌てて視線を逸らした。
「黙ってるなんて酷いじゃない。」
開口一番、強く柔らかい口調だった。
きつく責めたい気持ちはあるが麻相の気持ちを推しはかったかのようだった。
麻相は俯き加減で陽子に尋ねた。
「おばさんを覗いたの?」
ここを聞き出したのかとの問いはしなかった。
母親は黙っていてくれると信じていたせいもある。
「気を感じた。近くに居る事は分かってた。」
陽子は声を押し殺して答えた。
陽子の自宅に近すぎる事が仇となったと麻相は今更ながら後悔した。
いつになく陽子の顔は険しかった。
謝るべきかと麻相は思った。
しかし陽子の為を思えばこそのものであり謝る理由は麻相には無かった。
ため息をつきつつ陽子は肩を落とした。
「とにかく、んとに。」
ようやく陽子らしいほほえみを見せた。
「車校はどう?うまくいってる?」
そういいつつも麻相の背後に広がる空間を眺めまわした。
「卒検まであと少し。」
「そう。一カ月足らずで卒検。頑張ったね。」
それを聞いた途端、頭の中のモヤモヤが霧散していくのが分かった。
「部屋、見せてもらっていい?」
「いいよ。」
麻相はキッチンを抜けてカーペット敷の6畳間へ案内した。
「自炊してるんだ。」
真新しい炊飯器を発見して陽子は感想を漏らした。
麻相は布団をたたんで部屋の隅へ寄せると胡坐をかいた。
陽子も面前に座った。
「大学はどう?」
麻相の問いに陽子は思案顔になった。
いつもなら即答するはずの陽子にしては珍しい間いだった。
「色々とねえ。難しい。」
そう言ったまま黙りこんだ陽子に麻相は心中を察した。
レベルの高い勉学の空間に身を置く苦しさは誰よりも分かっているつもりだった。
「森本さんなら出来るでしょ。出来ないわけがない。」
麻相なりの励ましだった。
「だよねえ。まだ始まったばかりだし。」
気を取り直したとばかりに陽子は周囲を見回した。
雑然としているのに整理されている、かつて麻相の部屋で感じた風景と同じだと陽子は思った。
窓際に折り畳みテーブル、その上に山積みの書類、スマホ、IDカードが置かれていた。
窓とは反対側にハンガーラック、ジャケットが一着だけ掛けられていた。
ガラス窓の向こうには洗濯物が吊下がっている。
生活に必要なものだけがそこにあった。
「まだ新しいよね。」
壁紙、カーペットからは生活臭というものが感じられなかった。
「リフォームしてから住人が決まらなかったらしい。」
「家賃は?」
「2万円。」
「にまん、えん?安すぎない?絶対安いって。どうして?」
「訳アリ。」
それを聞いて陽子は何かを察したようだった。
「いいの?もっとましなアパートがあったでしょ?」
「稼ぎが無いからこれでも天国。今の俺には。」
開き直ったかのように麻相は答えた。
「スーパーの仕事は?出来てる?」
陽子の問いに麻相は戸惑った。
母親から聞いていない、脳裏を覗いていないならば麻相のバイト先は知らないはずだった。
「IDカードを見ればわかるよ。母さんのと同じ。」
陽子はテーブルに視線を移した。
麻相も振り返りスマホの横を眺めて納得した。
「手順通りってのは、俺、苦手。掃除係ってさ、簡単そうで簡単じゃない。」
自分の仕事を振り返りっていた。
店舗内フロア、陳列棚、店舗外周、トラック搬入口の掃除、青果部から出るごみの始末が現在の仕事。
経験を積んだのちに精肉部、鮮魚部の掃除にも回される。
こちらは食中毒に直結するから気が抜けないと警告を受けていた。
「麻相君は体で覚えるのは得意でしょ?」
「う、うん、まあ。」
「時間はかかるかもしれないけど、体が勝手に動くようになるよ。」
「ダイジョブだよね。」
「うん、ダイジョウブ。頑張ろう。お互いに。」
自分にも言い聞かせるかのように陽子は言葉尻に力を込めた。
陽子も挫折感を味わっていると麻相は推察した。
「車の免許は?」
麻相は問いかけた。
同じ車校に中学、高校の同級生の姿がそこそこあった。
青田市から転出していなければ同じ車校で免許を取得しているはずだからだ。
「今はちょっとね。二年生が終わるまでに取れればって。」
未だ余裕がない証拠だろうと麻相は思った。
新しい環境、難しい講義、長い通学時間に翻弄される陽子の立場を思った。
「他の子たちは?同じ車校でしょ?」
「何人か居る。でも教習の時間がバラバラだから。」
ロビーでは申し込みと問い合わせ、待合室では教習コースを覚える。
講義室では一つでも多くの標識を覚えるのでいっぱいいっぱい。
同級生の誰が要るのかを確認するほどの余裕が麻相には無かった。
「標識おぼえらんな~いって、私も頭抱えるんだろうなあ。」
陽子は自嘲気味に言ってのけた。
「なわけないじゃない。覚えるの得意でしょ。」
「その時が来たら、思いっきり笑ってやってください。」
その柔和な表情を見ていると麻相の心は穏やかになっていた。
この顔、この声に何度も励まされた。
己を奮い立たせるには必要な存在なのだと改めて思い知らされた。
しかしそれでは陽子の未来を危うくしてしまう。
頼ってはいけないと強く戒めた。
時計を見ると5時半を回っていた。
「メシの準備しなくちゃ。」
「もうこんな時間。帰ってレポート書かなきゃ。」
それぞれがそれぞれのやるべき事を思い出していた。
多くを語る必要はないとばかりに二人は立ち上がった。
玄関へ向かう陽子の後ろ姿を麻相は見つめていた。
スリムでいてスリムすぎないのは以前と変わらない。
背丈は麻相と大差ないにもかかわらず小柄に見えてしまうのは気のせいかもしれない。
そんな陽子の後ろ姿を見て{かわいい}と麻相は思わずにはいられなかった。
後ろから抱きしめたら陽子は怒るだろう。
そんな気がしたので伸びかけた腕はすぐさま降ろされた。
「じゃあ。また来るから。」
振り向きざまに陽子は笑顔で言った。
「いい。来なくても。大学が大変だろうし。」
黒革ローファーに足を通し終えると前髪を整える陽子。
その仕草に麻相は息を飲んだ。
その場を取り繕おうと麻相は慌てた。
「お、お、お茶もだせずに、ご、ごめん。」
「いいって。」
「こんな体たらくでは何もできなくて。」
不安と不満の混じる顔付の麻相に陽子はほほ笑みかけた。
「普通に生活できてる。それで十分でしょ?」
そう言われて麻相は返す言葉が無かった。
「じゃあね。」
陽子は麻相の肩を軽く叩いた。
ーー顔が見れてよかったーー
陽子のささやきが聞こえてきた。
廊下の先、階段を下りていくまで麻相は見送った。
階段の足音が遠くなっていく。
夕方の薄暗がりの中にあって廊下の照明ほの暗かった。
キッチンに戻ると米を研いだ。
軽くすすぐだけのはずが力を込めて擦り合わせていた。
掌の当たる米粒の感触はいつもよりも柔らかかった。
 




