ep3
お互いの性格も学力もまだ手探りの状態だったが教科担任は一巡した。
部活の募集が始まった4月の半ば。
五月晴れというには早いが春の息吹を感じるすがすがしい日だった。
一年生は午前の授業を使い体力テストが行われた。
中学時代の体力テストの流れをくむものであるからうんざりといった声もあった。
特に持久走は誰もが嫌がるか種目であり、陽子は特に苦手だった。
自分の走力を試す機会であるからには50m走を先に行い、
その後に持久走の順であってほしいと願っていた。
1年生3クラスが男女に分かれ個々の種目をこなして次の種目へ進む。
教師らの計らいで持久走は最後に行うことになった。
各組共に統率が取りきれていないことから遅れが出て始めた。
順番待ちを避けて他の種目へ行っても先行クラスの後ろで待つしかなくなっていた。
持久走の時間が迫り各種目ともに急かされ、
50m走ではB組、C組が先に終え最後がA組女子、その後ろにはB組男子が順番待ちしていた。
時間短縮のために女子最終と男子先頭が同時に出走するようA組担任が指示した。
それで変わるのはほんの数秒だが気持ちの問題もある。
トラック2レーンにはA組最終ランナーの陽子。
3レーンはB組男子先頭。
陽子にとっては隣が誰であろうと気にならなかった。
いつも通りにスタートを決めるだけ、膝を高く、地面をけり上げれば先頭で風を切れる。
距離が短い50m走ではスタートダッシュだけでタイムが決まってしまう。
高まる鼓動を押さえつけるようにしゃがみこみクラウチング姿勢に入った。
体育授業の一環なのでスタブロもスパイクも使えない。
最初の三歩が大事。
「位置について」
「よお~~い」
教師の合図を陽子は頭の中で置き換えていた。
~On your marks~
~Set ~
号砲と同時に体が前に飛び出していた。
身体の反応が軽く感じる。
~イケる~
~イケる~
耳を切る風の音が心地いい。
前方だけを見ていた陽子。
視野の外、左の影が気になった。
左は3レーン。
初速の蹴り出しでついてこれても中間速度で引き離せる。
足を速く動かすだけ。
ゴールラインが見えてきていた。
左の影が視野に入ってきてる。
その姿は次第に大きくなり腕の動きまでわかるほど。
~抜かれた!?~
3レーンのランナーの腕は陽子の腕よりも前にある。
そして背中が見え始めた。
~ヤバッ!! トルソーッ!!~
ゴールライン直前に陽子は上体を前に倒した。
ゴールラインを超え10mほど惰走した。
「森本さん、7秒ゼロ、はやああああ~~い。」
計測係から驚嘆の声が上がった。
荒い呼吸を整えつつ自分の記録を記憶した。
こんなに呼吸が乱れるのも久しぶりだと陽子は酔いしれていた。
「麻相、6秒4」
その記録を読み上げた声に陽子ははっとした。
左のランナーは自部よりも先にゴールしたのだ。
それはタイムを比較しても明らかだ。
その男子を探しにゴールライン近くまで戻った。
膝に手を突きうなだれる短髪の男子が目に付いた。
荒れた呼吸を整えると上体を起こした。
やや面長、眉間にしわが寄った強面、目が優しい、といよりも目力がない。
その目は元からなのか、全ての力を出し切ったためなのか分からない。
今まで見てきた速い男子にこんな顔付をする者はいなかった。
シャツの胸には「麻相」の刺繡がある。
この男子が自分よりも速かったのは間違いない。
陽子はスプリントのテクニック、トルソーを用いた。
この男子は上体を起こしたままゴールラインを超えたはず。
それでも男子に負けた。
悔恨とクエスチョンマークが頭を往来した。
こんな男子が居たことが驚きだった。
陽子は気持ちを整理し過去の記録を思い出した。
昨年の夏、部活内で計測したときは7秒2。
そこからコンマ2秒の短縮、スタブロとスパイクを使えば6秒台は確実だった。
悔しさを感じた。
ただ同じ条件、スタブロ、スパイク無しで6秒台をマークした隣の男子。
これには流石と思わずにはいられなかった。
春休み中に軽いトレーニングはしていたが運動量自体はさほどでもない。
体重は若干の軽減、体脂肪は変わらず。
これで自己ベストが出たのは望外と言ってもよかった。
ただし男子と女子の違いが出てきたと感じずにはいられなかった。
男子は高校時代から一気にタイムを短縮できるようになるが
女子は微減か横ばいであり、僅かでも短縮できるように努力するしかない。
短縮するには天賦の才もあるが極限の鍛錬と体質改善しかないと
インターハイ強化合宿での座学で教えられたことだった。
持久走のスタート地点へ向かう途中、6秒台の声が3回ほど聞えてきた。
他にも足の速い男子が居るようだ。
男子よりも速いと囃し立てられてきたがそれも今日までと陽子は思った。
「負けちゃったね。」
青田中学から進学してきたクラスメートに声を掛けられた。
「そだね。他所の中学には速い奴がいるんだ。世の中広いわ。」
その返事に相手は虚を突かれた顔をした。
「麻相はうちの中学だよ。」
今度は陽子が虚を突かれた。
「3年3組の麻相瞬、高崎と付き合ってたワルだよ。」
「えっ!そうなの?」
声が上ずった。
「普通にいけば置高(置外高校の蔑称)にしか行けない。」
クラスメートは失笑した。
「なあぜか、ここに居るんだよね。不思議。」
陽子は振り返りB組男子を見回した。
そこには一人だけ空を見上げる麻相がいた。
「あいつ、頭良かったのかな?そうは見えないけど。」
「そうは見えないよねえ。」
陽子も相槌をうった。
日が高くなり心なしか暑さを感じるようになっていた。
B組男子の50m走が終わりトラックが空いた。
B組とC組の女子も集まり女子持久走1000mがスタートした。
走り始めてからの半周は先頭集団についていた陽子。
一周400mトラックを二周半するだけだが永遠に走り続けるように感じる。
息が苦しい。
陽子は次第に遅れはじめ先頭から41秒遅れてゴールした。
ゴールラインを超えるとトラック内側に退避。
前かがみに膝に手を突き荒い呼吸を繰り返した。
のどがカラカラになり声が出せそうにない。
呼吸が落ち着くと上体を起こし深呼吸を繰り返した。
跳ね上がった鼓動を落ち着かせるにはどれだけの深呼吸が必要なのかわからない。
この不安な体を元に戻したいとの思いしかなかった。
スプリント体質の自分に長距離は絶対に向いていないと陽子は思った。
陽子は中学時代と同様に陸上部へ入部した。