とある保険会社社員の業務日誌 Case:余命一年と告げられた社長の生命保険
目の前に一枚の契約書があった。
彼はとある保険会社の新入社員であり、初めて任された仕事を前に緊張していた。
間違えた部分はないか、足りない部分はないか。何度も目を通すうちにあることに気が付いた。しかし、それがどういうことかわからず首をひねっていた。
「先輩、少しお時間よろしいですか」
この春まで学生だった彼にとって保険というのは縁遠いもので、それが普通のことか判断できず答えを求めて隣の席の先輩社員へと疑問を投げかけた。
「どうした? なにかわからないことでもあったか?」
キーボードを打っていた手をとめて顔を向ける。仕事を中断されたが特に嫌な顔をせずに後輩からの質問を待った。「これなんですけど」と差し出された契約書類。ざっと目を通してみるが不備はない。今回、後輩に任されたのはとある契約内容の変更のための事務処理だった。
「問題ないよ。このまま処理を続けて大丈夫だ」
「はい、ありがとうございます」
書類を返して自分の仕事に戻ろうとしたが、後輩の表情はまだ何か引っかかっているようだった。
わからないことを聞けるのは今のうちだからと、促してみると「変なことを聞きますけどいいですか」と前置きをしてからおずおずと口を開いた。
「変更後の受取人って本当にこれでいいのかと思いまして、こういうのって親とか夫婦と子供が普通なんじゃないでしょうか」
後輩に任せた仕事。それはとある保険の受取人の変更だった。しかもそれは生命保険なのだから、後輩の疑問はもっともだろうと思った。
「そうだな。生命保険の場合、基本的に戸籍上の配偶者と二親等以内の血族または二親等以内の親族というのが多い」
しかし、今回の契約についてはそれに当てはまっていなかった。
契約者はとある零細企業の社長。受取人はその社員。
そして、変更前の受取人は社長の夫人だった。
「下世話な言い方になりますが、もしかして、愛人とかですか?」
「そういうケースもあるな。だけど、契約者も受取人も二人とも男性だ。つけくわえると、脅迫や詐欺などの事件性もない」
つけ足された説明にさらに後輩は頭を混乱させる。頭を悩ませる後輩をみながら、自分にもこんな時期があったなとほほ笑む。
このまま放置するのもおもしろいが、集中を乱しては業務に差し支えるだろうと三人について語っていくことにしよう。
*
コンコンコン。
控えめなノックの音を響かせたのはスーツ姿の男だった。髪を整えてはいるが、年季の入ったスーツやところどころ剃り残しのある無精ひげがくたびれた印象を与える。
「社長、およびでしょうか」
およそ20年、彼がこの会社に入ってから過ぎた時間だ。
従業員10人前後の小さな会社で、人が減っては補充しての繰り返しで出入りも激しい。まだ40歳をすぎたばかりだというのに彼が一番の古株になっていた。
休日も少なく残業時間も長い、はっきりいってブラック企業である。やめようやめようと思いながら、転職活動をいざはじめようとしてもめんどうになってずるずると続けていた。
「実はな、会社をたたもうと思うんだ」
「それは突然ですね。理由を聞かせていただいてもよろしいでしょうか」
驚いた表情をしながら理由を考える。自転車操業の時期もあったが、最近は資金繰りも問題なかったはず。
「この前病院にいったときにだな、もう体の調子がよくないと言われた。気づかないうちにガタが来ていたようでな。もう長くないとも言われたよ」
そういって指を一本立てる。余命一年らしい。いろいろと無茶な働き方をした結果だろう。
「長年つきあってくれたキミに会社はまかせようかとも思ったが、やはり会社はたたむことにしたよ。その方がキミにとってもいいだろう」
「そんな、私はずっと社長についていきますよ」
悲しそうな口調で訴える。へにょりと眉をたれさせるのがポイントだ。もちろん演技であるが、おそらく見抜かれているだろう。
本気でやめようかと思った時期もあったが、そんなときの社長の対応は早かった。飲みに誘われて普段行かないような高級な店でおごられたり、重要な仕事を任されたりとやめにくくされた。
もちろんしがらみを振り切ってやめることはできたが腐れ縁というやつだった。そんな縁も完全に腐り落ちて切れてしまったのだろう。
「余生は家でゆっくりするつもりだ。家内にも伝えてある」
「え、奥様とですか……?」
思わず怪訝な顔をしてしまったが、社長はうんとうなずいた。
その後、従業員に会社の解散が伝えられた。もちろん動揺はあったが、もとから長く続けるつもりもなくちょうどいいかと特に騒ぎにもならなかった。
唯一抵抗していたのが社長の奥さんだった。社長室から彼女の「離婚よ」という大声と、なだめる社長の声が聞こえていた。
それが二、三日続いたがある日ぱたりと止んだ。
「妻にな、余命のことを伝えたらようやく納得してくれたよ。最期まで一緒にいるともいってくれた」
最後の給料日には社長が給与明細をみんなに手ずから渡していった。ひとりひとりに感謝を述べていき、最後に渡したのは彼だった。
「君には退職金も用意してある。だが、準備に少し時間がかかるので待ってもらえないだろうか。必ず渡すと約束する。このことは妻にはくれぐれも内緒にしておいてくれ」
大した額ではないだろうと期待はしないまま、最後の出勤日が終わった。
それにしてもと彼は不思議に思った。社長の最後の言葉だ。
はっきり言って社長と奥さんとの仲はあまりよくなかった。家に帰るのが怖いなんてこぼしては、仕事ばかりでほとんど家に帰っていなかった。浪費癖もあるらしい彼女が会社の経理を一手に握っていて、もしかしたら会社の経営が常時苦しかった原因の一つだったんじゃないかとも思っていた。
若い頃は美人だったのだろうなという顔だちの女性で、従業員を召使いのように扱うので陰では『女帝』などと呼ばれていた。
とうとう会社がなくなると、今まで働いた分ゆっくりしていようかとも思った。しかし、20年の間に体にしみついた習慣は変えられることもなくすぐに次の就職先をさがすことにした。
転職先を探して何社か受けていた際、退職理由や労働環境を告げると面接官からはたいそう同情的な目で見られた。
いくつか受けた会社のうちのひとつから内定をもらい新しい就職先も決まった。
大きくも小さくもない会社だったが、残業もほとんどないし土日も休める。それがこんなに素晴らしいことだなんて知らなかった。
これで給料ももらえるのだから最高だ。ホワイト企業万歳。
新しい会社の仕事にも慣れ始めたころ、社長が亡くなったという連絡がきた。
カレンダーを見ると、あの日から多少は前後するがほぼ一年ぴったりだった。生前はずぼらな性格からくるトラブルのしりぬぐいをさせられたことも多かったが、死に際だけは几帳面なんだなと思った。
葬儀に参列し、ひさしぶりに社長と対面した。棺に入った社長は生前は常に眉間にしわをよせていたけれど、気がかりはすべてこの世に置いてきたとばかりに安らかに眠っていた。
読経が終わると、奥さんが喪主としてとつとつと社長との思い出を語っていった。だけど言葉の端に隠し切れない愉悦が浮かんでいる。もらった遺産をどうしようかなんて考えているのだろうか。
葬儀が終わり一か月がたったころ、転職先の会社の給料を確認しようと通帳をATMにつっこんでいた。これは癖だった。なにせ毎回支払われるか不安になりながら20年間勤めていたのだから。『もう少し待ってくれ』と『振り込むのを忘れただけだ』という言葉を給料日毎に交互に聞かされていた。
通帳の残高を見て、ちゃんと振り込まれていることを確認したところでふと思い出した。
「結局、退職金はもらえずじまいだったなぁ……」
亡くなる前の社長は最後の思い出作りだと言って、奥さんを連れて旅行に出かけたり高い店で買い物しては散財していた。それこそ貯金を使い切るぐらいの勢いで。
退職金なんて、ちゃんと払うつもりがあるのかと疑っていた。
「まあ期待はしていなかったけどね」
やっぱりか、とため息をつくと社長の『もう少し待ってくれ』という声が自然に脳内で再生される。死に装束で謝っている社長の姿を思わず想像してしまった。
アパートに帰ると郵便受けに不在届が入っていた。誰からかと思いながら差出人を見て、思わず眉をしかめて。
社長からだった。
不気味に思いながらも再配達を頼むと、受け取ったのは大判の封筒だった。中身は保険証書だった。
「生命保険……なんで……?」
契約者には社長の名前、そして受取人には彼の名前が書かれていた。
わけがわからず保険会社に問い合わせると、すぐに答えが返ってきた。
「受取人には確かにあなたのお名前がかかれています」
わけがわからないまま言われた通りに手続きを終えた。それでもまだ信じられないでいた彼は再びATMに向かった。
吐き出された通帳の残高を見た。もう一度見た。預金の桁が一つ繰り上がっていた。明細をたどっていくと「セイメイホケン」という見慣れない文字があった。
これが退職金なのだろうと理解はするが、わからなかった。どうしてこんな遠回しで面倒な方法を選んだのか。
首をかしげていると電話がかかってきた。液晶に表示されているのは社長の奥さんの名前。
電話口から聞こえる彼女の声はとてもせっぱつまったものだった。興奮した口調で『セイメイホケン』『ワタシノヨ』と繰り返していてとても話が通じるとは思えなかったので、電話を切った。
*
チンと、置いた受話器が音を立てる。
「お疲れ様。無事に終わったな」
ねぎらいの言葉をかけられたが、一仕事を終えた達成感はなかった。
「あ、はい……、保険の仕事ってこういうことがあるんですね。なんだか、思い知らされた気分です」
しんみりしている後輩に、ここはひとつ先輩としていいことの一つでも言ってやることにした。
「生命保険ってのは他の保険と違うところがあってな。自分の今後のためではなく、残された者たちへのものなんだ。だから、こういうケースもたまにある」
ある人間は残された家族が苦しい生活をしないようにという願いを込めて。
ある人間は残された人間への謝罪を込めて。
そして、今回の社長が残した思い。
それらは受取人以外にも向けられることがある。
「……死者から贈られるメッセージってことですか」
「そうそう、そういうことだ。これもまたダイイングメッセージの一つというわけだな。はははっ」
笑いながら言ってみたが、じっと見てくる後輩の視線を前に誤魔化すようにこほんと咳払いしてみせた。
そうして彼らはまた次の契約に取り掛かる。そこに込められた思いと向き合いながら。
それから社員だった彼や社長夫人の彼女がどうなったかって? はてさて、保険の仕事として見聞きしたのはここまで。きっと彼は新しい職場で元気に働いて、彼女は残された遺産を使って優雅な未亡人ライフを送っていることでしょう。