バッグとみづき奪還
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このまま帰ってやろうと思ったが、バッグを部屋に置いていたことを思い出し諦めた。でも、もうあそこに戻りたくはない。ゆめはとりあえずトイレに行った。
鏡に映る自分の顔は予想とは違い冷静に見えた。少し目は充血していた。動悸はなかなか収まらない。別に何をされたわけでもなかったが、不快感と嫌悪感を強烈に感じた。思い出したくもなかったが、現状はみづきをあの男と2人きりで置いてきている。どうしたものか、しばし思案した。
ドアが開いて顰め面の中年のおばさんがトイレに入ってきた。ハッとしてゆめは手も洗わずに入れ違いにトイレから出た。
ドリンクコーナーに足を進めてそこで手を洗い、カップを手にした。
ジンジャーエールを選択してボタンに触れた。炭酸はそんなに得意ではなかったが気分を変えたかったのだ。
シュワシュワと音が聞こえる。ゆめは少しずつ口の中にその液体を入れた。パチパチ弾ける感じが口内を刺激して声が出そうになる。すぐに飲み込んだ。
『うー効くなー』
もう1回口に含んだ。
『くぅーっ。やっぱ凄いな』
口の中がピリピリしたが、期待した効果は少し得られたようだ。
飲み残しは用意されている流しに捨てて、カップを返却口に置いた。
意を決したゆめはきびすを返してもと居た部屋に向かった。
見覚えのあるナンバーのドアの前に立つと、中から薄く音楽が聞こえた。ゆっくりドアを開けるとカラオケの音量が急激に上がり不快感を覚えたが、目の前の光景はそれをはるかに上回る嫌悪感を与えてきた。
部屋の隅で人間がもつれて蠢いている。斎木がみづきに覆いかぶさっているように見えた。
「いやー」
というみづきの声が聞こえる。2人はカラオケ機材の横の隙間にしゃがみ込むような形でひとかたまりになって動いていた。
「わーっ。やだー」
みづきの絶叫に、ゆめは当たりを見回した。
テーブルの上のマイクが目に入った。
ゆめはすぐさまマイクを掴んで斎木の茶色い後頭部に振り下ろした。
「ごっ!」
強く鈍い音が機械的な残響音を伴ってモニターから聞こえた。
「うっ!」
と叫んで斎木は頭を抱えた。涙で腫らした目をゆめに向けたみづきはズルズルと斎木のそばから抜け出すとゆめに向かって飛び込んできた。ゆめがマイクを手放したため床に当たって再び
「ごっ」
とモニターが音を出した。
「 行くよ!」
みづきの手を強く引いてゆめはドアを開けて部屋を飛び出た。ドアが閉まると、ぶるぶると体を震わせてみづきはドアの前にしゃがみ込んでしまった。
恐怖におののくみづきには同情するが、このままここに居るわけには行かない。なにしろ自分は斎木という初めて会った男に暴力を振るってしまっている。思い返しても恐ろしい。怪我をさせてしまっただろうか。命に別状はないだろうか。ゆめは突如襲ってきた己の心配事に恐怖を感じて押し潰されそうになった。
しかし、早く逃げなければいけない。掴んでいたみづきの腕を引き上げようとして、ゆめはバッグを置き忘れていることに気がついた。
「みづき、うちらバッグ持ってきてない!」
「えー。ムリ!」
みづきが頭を震わせた。
「取ってくるよ」
ゆめは掴んでいたみづきの腕を離した。
「 え!」
みづきが振り乱した髪の中から顔を見せた。驚愕の表情が見えた。
ゆめはドアを開けた。すかさず、みづきが開いたドアのノブを掴んでキープした。斎木はまだ頭を抱えてうずくまっていた。ゆめは決死の覚悟で部屋の中に飛び込むと2人のバッグを掴んだ。その時気配を感じた斎木が振り向いて顔を上げた。
「キャー!」
みづきが叫びのお手本のような声を上げた。バッグを必死に抱えたゆめが勢いよくドアから出ると、
「どうしました?」
と若いスタッフが駆け寄ってきた。2人は説明もせずにひたすら走り抜けた。
店を出てもしばらく走った。アドレナリンの効果かいくらでも走れる気がしたが、見慣れた校門まで来ると急に力が抜けて2人とも崩れ落ちた。肺がちぎれそうなほど苦しい。息が出来ない。
人に見られていることを気にかける余裕もなく2人は
「はあっ、はあっ」
と荒い呼吸を繰り返していた。すっかり地平に近づいた太陽が、強烈な西日を2人に浴びせていた。




