1591年3月30日 日ノ本惣無事令
1月に幕府が出した号令に基づき、聚楽第には全国から多くの貢物を抱えた諸大名の上洛が相次ぎ、ほぼ全ての大名に対し、
・北条幕府に従うことを記した誓紙の提出
・人質の京への在住
・幕府の公定税率4公6民を守る事
・計量には北条公用枡である榛原枡を使用すること
・領民からの訴訟を受け付ける目安箱を各城門に設置すること
(訴訟の審議は幕府評定衆により行う)
を引き換えに所領安堵が行われた。
真っ先に、やって来たのが毛利家だ。小早川隆景、安国寺恵瓊といった小田原でアルキメデスの熱光線を浴びた武将が当主・輝元に北条幕府には決して逆らわないよう強く進言したらしい。
誓紙とともに人質として当主・輝元の養子である宮松丸(11歳)を差し出した。
宮松丸は前年に元服していたので将軍氏直から偏諱の「直」を与えられ毛利直元と名乗った。
嫡子がいなかった小早川隆景には養子として北条氏隆が入り、そのまま小早川氏隆と名乗った。
当主・輝元の養子として北条繁広(15歳)を派遣して毛利氏元と名乗った。
こうして、毛利家内に北条一門の者が二名も跡取りとして入ったことで、毛利家は中国探題に任じられた。
また岩見銀山を幕府直轄とする事も決まった。毛利にとっては大変な痛手だが瀬戸内の海運利権は引き続き毛利が持つことを幕府が保証したのでので了承された。
次いで四国の長曾我部家である。小田原で当主・元親が死亡した為、元親の弟・香宗我部親泰が当主代理を務めていたが、誓紙とともに人質に元親の三男・長宗我部盛親(15歳)を差し出してきた。元親には次男・津野親忠(18歳)もいるのだが元親に疎まれていたらしく、後継者には家内で賛否の声が上がっているという。そこで、幕府から長曾我部の当主として将軍・氏直の弟である千葉直重が入り長曾我部氏親と名乗ることとなり、合わせて長曾我部家の四国探題就任が決まった。
かつて、四国統一一歩手前までいった長曾我部家にとって「四国探題」就任は悲願だったのだろう、親泰は感涙して喜んでいたという。
実は千葉直重の長曾我部当主就任には、俺の推薦が影響している。直重は元々、千葉家の当主として下総上総を領有していたのだが、小田原戦後、そこを俺が奪う形になってしまった。にもかかわらず、直重は俺を恨むそぶりも見せず極めて良好な関係となっていた。彼のような人徳と一度他家の当主に入った経験があれば四国の雄・長曾我部家も上手く差配するのではないか?と考えての推薦である。
こうして、嫡男に北条一門の者を送り込むという、北条外交の典型のような形で毛利も長曾我部も事実上取り込まれたのである。
九州からは、加藤清正、小西行長、島津義弘、大友義乗、鍋島直茂、龍造寺政家、有馬晴信、宗義智らである。皆、毛利の中国探題就任、長曾我部の四国探題就任を知っているので、我こそは九州探題にと貢物も大奮発しての上洛だった。
ただ、これらの家々はどこも大きさに大差はないので当面、所領安堵に留められ探題を任された家はなかった。
そして、雪解けと共に奥羽勢も上洛、南部家こそ九戸の件で詰問を受けたが、他は前年の小田原の約定が改めて確認され所領安堵された。また、伊達家が自称していた奥州探題が公的に認定された。これで、伊達家に従属していた大崎、葛西といった古い家は伊達の差配を受ける事になった。
また、関東では、那須家、宇都宮家、正木家が北条に臣従した。元々領地を北条領に囲まれており、独立しているメリットがまるでなかったので当然ともいえる判断である。
これで表の世界の惣無事はなったことになる。
表の世界と言ったのは、裏があるからだ。猿関白の時代には大大名の徳川家を関東に移封するといった約定があったという。だが、全国を武力で制したわけではない北条幕府にはそこまでの力はなかった。何しろ関東でしか武威を示していないのである。仮に九州の大名を別の地に移封するよう命じたとしても従わない可能性もあるというのが実情だったのだ。
そこで取られたのが裏の世界、即ち忍びの転封である。
毛利の忍びである世鬼は九州北部に移転。島津への抑えとした。
島津の忍び山くぐり衆は動かせないと判断したのだ。しかし、島津領以外の九州を世鬼の活動範囲とすれば、山くぐりと言えど、そう勝手は出来ないだろうという訳だ。
毛利を始めとする中国地方は鉢屋の担当となった。かつての主家尼子が滅んで以来、主家再興を望む者もいた鉢屋であるが、中国の裏の支配者就任には歓喜の声をあげる者も多かった。
四国には雑賀と丹波の村雲衆に入って貰った。雑賀は鉄砲が有名だが忍び働きが出来る者もいるし、村雲は元々主を持たない流れの忍び衆だったから幕府直属の裏働きにありつけてやはり喜んでいた。
畿内・甲信・北陸は伊賀・甲賀で分担させた。
越後の軒猿はもう氏照さん直属となっているし、伊達領以外の奥羽・蝦夷は羽黒党の活動地域とした。島津の山くぐり、伊達の黒脛巾組は旧来の主家にそのまま仕えるが、周囲を囲まれてしまっているので無茶は出来ないだろう。
これに伴い、全国忍びの影の頭領である伊勢家というか俺には幕府から相当の活動資金が入ることになった。現代で言えば官房機密費といったところだろうか?
また、都と伊勢家の本拠・佐倉にも忍びの交流サロン・百石屋が開設された。
北条家時代の技開家老は継続となったから、伊勢家には幕府からとんでもない額の資金流入が行われることになった。勘定方家老に留任した山角さんからはまた睨まれそうである。
ーーー 第二章 三つ鱗躍進 (完) ーーー
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