1591年2月8日 九鬼嘉隆
謹賀新年
本年も宜しくお願い致します。
相良油田を後にした俺達一行は浜松に戻り、御用運送・九鬼水軍によって木更津に戻った。
今回は小田原に立ち寄らないので、ご隠居様と氏隆に不義理を詫びる文を送った。
上洛しといて土産もなく文のみとは、察しの良いご隠居様なら事情を汲んでくれることだろう。
さて、今回の船には、九鬼水軍の総大将・九鬼嘉隆が乗っていた。俺に挨拶する為だという。
『伊勢様、此度、正式にお伊勢様の御子様になられたそうで、誠におめでとうございます』
あれ?内々の話じゃなかったの?なんで、九鬼がもう知ってるの?
「ありがとう。だが、その話、内密の儀の筈であったが、その方、どこから聞いたのだ?」
『はっ、某は津島の商人より聞きました。伊勢様の別宮を建てるので、お伊勢様が寄進を所望しているとのことで、津島衆はかなり出したようです。内宮の中に別宮を建てる等、おそらく初の事ですからな、寄進するのも名誉なことでしょう。無論、我らも熊野水軍も幾ばくか寄進させていただくつもりです』
商人に知られた!それもう内々の話じゃなくなってるよ。あっという間に全国に広まるぞ。何やってんだよ伊勢神宮。結局、俺をダシにして金集めするだけじゃないのか?やはり宗教関係は油断ならんな。
「そういえば、九鬼水軍も熊野水軍も熊野神社を信仰していた筈だが、伊勢神宮に鞍替えしたのか?」
『あいや、熊野権現様とお伊勢様は密接な関係が御座りますれば、我らは元よりどちらも信奉して参ったのでございます』
俺自身は宗教は嫌いだが、現代より遥かに自然の猛威に晒されるこの時代、中でも海を行く者達にとっては神に縋っていないとやっていけないのかも知れないね。
俺もこの時代を生きる以上は、毛嫌いせずに宗教を利用して行く方が利口かもしれない。
尚、この船室は、現代風いや南蛮風の椅子と机の部屋だ。腰を下ろす和風の座り方より、椅子の方がイザというとき動きやすいからね。
「小田原から直ぐに引き上げたのもお伊勢様信仰の故か?」
『勿論でございます。あの時、水軍の大半は逃げようとしたのではないでしょうか?結局、沖で待っていると、逃げおおせたのは安国寺と毛利の一行のみでしたが・・』
『ですが、私共は外海を行く水軍です。以前は毎年海で命を落とす者がおりましたが、伊勢様の旗下に加えていただいて以降、一人も死者が出ておりません。誠にありがたい事でございます。その上、此度はお伊勢様と伊勢様が正式に合祀されるとのこと。本当にようございました』
九鬼は北条ではなく、伊勢家に仕えているつもりなのか?まあ、氏光や他の北条の領主の求めにも応じている様だし、気にしないでおくか。
そんな事を話しながら、およそ4日で木更津に着いた。相変わらずのひなびた漁港である。
「義隆、この港をどう思う。当家の主港としては些か貧弱だと思わんか?」
『申し上げにくいですが、仰る通りかと』
「水軍の長として、港作りに是非意見を聞かせて欲しいのだが」
なにしろ、現代の千葉港にあたる辺りは、この時代はただの浜である。
下総上総を治めていくとしたら、どこかに湊の建設は必須だろう。
『微力ながらお力になりたいと思います。志摩は守隆に家督を譲りますれば、殿の地にて骨を埋める所存で働かせていただきます』
なんと、いきなり常駐してくれるらしい。これは助かる。
「梶原景宗という者が富津湊の整備を担当してる。その内、引き合わせるから、よく相談して新港の候補地から選定していってくれ」
『梶原殿も殿にお仕えしているのですか?』
「あぁ、知り合いか?」
『は、梶原殿は廻船問屋のような仕事もしており何度か護衛を請け負った事があります。商港であれば、某より詳しいかもしれませんな』
え?そうなの?梶原に水軍の拠点整備を任せたのは間違いだったか。九鬼と仕事交換させようか?
「梶原に今任せている富津湊は水軍の拠点なのだ。そう言う事であれば、富津こそ義隆に任せるのが適任かもしれんな」
『富津湊はここから遠いのですか?出来れば一度見てみたいのですが』
「いや、富津はこの近くだ。今から使いを出す。梶原を呼んでこよう」
その後、富津からやって来た梶原と義隆は旧交を温め、富津湊の整備を共に行い、その後商用の新港を建設することになった。やはり持つべきは人の縁。二人が息が合ってるのは話してるのを聞いているだけでもわかる。きっと、良港を建設してくれるに違いない。




