1590年12月1日 天満本願寺・本願寺教如
教如は金沢城の北条氏邦から贈られてきた品々と謝意を表す文を満足そうに眺めていた。こうして眺めるのも、これでもう3度目だ。
「関白・秀吉はもういない。その上、畿内から連れていった武将や兵の多くが帰国していない。そして、秀吉を倒した北条はこうして我らに恩を感じている。
時は来た。今こそ、我ら本願寺教団の理想郷を作るのだ。まずは、主不在の畿内を制しよう」
彼は未だにかつて全国の大名を震撼させた一向一揆の力を忘れられなかった。
「父上にも困ったものだ。穏健派等と祭り上げられて、腑抜けてしまったわ。武家の無辺者共から民草を開放する夢は、我らも武力を持たねば叶わぬということすら忘れてしまったのか」
今や畿内で自分を止められる者はいない。教如はついに兵をあげる決意をする。
畿内の本願寺の諸寺、下間一族に宛て挙兵の触れを出した。
”主不在の畿内の秩序を本願寺教団の力で回復し、蓮如様以来の念願だった本願寺教団の理想郷を実現しよう”という理屈は一定の説得力を持っていた。
何しろ、畿内では商家の大店や主未帰還の城の蔵が破られる盗賊が跋扈していたからだ。そして、この教如の行動に公家も理解を示した。何しろ、北条はいくら督促しても氏規を派遣してくるだけで一向に当主・氏直が上洛する気配すらない。
公家にとっては、京の治安の維持と自分達への献金・献上をしてくれる勢力であれば誰だって良かったのだ。
教如は自らの本拠・天満本願寺、和泉の貝塚御坊、河内の慈願寺の僧兵と共に、畿内各地に進軍していった。既に高野山に且つての力はなく、延暦寺は再建が始まったばかり、障害となる勢力など全く想像できなかった。
「進者往生極楽、退者無間地獄」(前進して戦って死ねば極楽に行け、逃げれば地獄に行く)
且つて大勢の農民を戦いに駆り立てた、呪文と共に兵を進めていく。この言葉とともに進軍すれば多くの農民が味方となって参集してくる筈であった。
だが、教如は大きな思い違いをしていた。
かつての戦乱が絶えなかった群雄割拠の時代と違い、畿内では1585年の紀州征伐を最後に戦争は起こっていなかったのだ。
その上、天下人秀吉の直轄下にある畿内は、全国で最も兵農分離が進んだ地域であり、農民は徴兵されることもなく農作業に従事し一定の年貢を納めるだけで、戦乱の時代とは比較にならない平穏で穏やかな日々を送っていたのである。
『しゃらくせぇ!ここが極楽浄土や!食い物恵んでほしかったら土下座して頼め。この生臭坊主!わいらが納めた年貢を城蔵からぺちっとるのはおのれらとちゃうんか?この盗人禿』
『北条はんには「お天道様」が降りたんやで。おのれらも御託言ってねえで、お天道様降ろして見せてみろ』
『戦なんてしてぇなら、おのれらだけでやれ!この生臭禿!』
厳しく苦しい日々を過ごしている者には、この世は地獄同然だから「戦えば極楽浄土に行ける」と言われれば扇動されただろうが、そこそこ食えている暮らしをしている者に「戦って死ねば極楽浄土に行ける」と言っても誰も耳を貸そうとしない。
農民にとっては、最早、本願寺こそが戦を持ち込もうとする迷惑な存在だったのだ。
なので、僧の念仏に応じて参戦してくる農民など誰もいない。
僧兵が武力で無理にでも言う事聞かせようとすると、集落住民が一丸となって対抗してくる。畿内では天下人・秀吉による刀狩りが行われていたが、集落から武器が全くなくなったわけではない。野獣対策に多少の武器はあったし、農具も使い方によっては武器となりえるのだ。
僧兵がいくら鍛えていようが、武具を整えていようが、怒らせた農民達の人数の多さには敵わない。これはかつての一向一揆と同じである。
つまり、教如ら本願寺の行動は、農民たちに本願寺に対する一向一揆を引き起こしたようなものなのである。
僧兵の持っている槍・刀・薙刀はやがて奪われ法衣も剥ぎ取られるケースが続出した。
『北条はんは、奴隷買ぅてくれるそうや。こいつら連れて美濃まで行けないやろか?』
『いや、北条には悪党の体を生きたまま捌いて火薬に変えちまう恐ろしい鬼がいるって噂だ』
(これは小田原で、もう助からない重症の人の体からグリセリン採集作業に密かに加わった上方の兵が流した噂である。一部の兵はこうして路銀や米を稼ぎ故郷に帰っていたのだ)
『死んだ後は極楽浄土じゃのうて、火薬かよ、そら恐ろしいわ』
やがて、農民領民の口コミで『本願寺が戦を起こそうとしてる』『盗人は本願寺だ』噂が噂を呼び畿内全体に広がっていくのに時間はかからなかった。
ようやく訪れた平和を乱そうとする本願寺は領民全体の敵であり悪となったのだ。
『教如は、だいろくてんまおうだ!』一般の農民領民にとって第六天魔王とは単に”悪党の親玉”という意味でしかない。
とうとう、本願寺の寺が領民に焼き討ちされる事件も起き始めた。
『ぺちった米でこない高そうな物買うてるわ!』
寺の品の略奪も始まってしまった。
実際、畿内で盗みを働いているのは五右衛門と波田家なので本願寺は完全に冤罪なのだが、一度巻き起こった噂は簡単には消えない。”火のない所に煙は立たぬ”という諺を捩って言えば”煙が立ったからには火があるに違いねぇ”ってところだろうか。
ついに、天満本願寺も襲われる事態となり、教如は残った僧兵に守られ加賀に落ち延びた。
『氏邦なら俺達を保護してくれる。いや、そもそも氏邦なんて傀儡だ。兵の実権を握っているのは本願寺の僧兵だそうじゃないか!加賀から捲土重来だ』
教如の父・顕如は顕証寺に逃げた。顕証寺は穏健派として周辺住民から知られていたので襲われることはなかったのだ。
方言翻訳サイトを使って、試験的に関西弁に挑戦してみました。意味、通じてますでしょうか?
少し、心配です。




