1590年9月20日 出陣
9月20日(新暦10月18日)北条各隊は四方に出陣していった。俺と雄二や伊勢家臣団は小田原に居残りである。
といっても、殆ど合戦は起きないという予想だという。
北関東勢は単体で北条に対抗できないから関白に頼っていたのであり、その関白がいなくなった以上、もう立ち向かう力はなかった。北条札が無価値になることの恐ろしさを身をもって知った国人、領民は徴兵を拒否し一揆の気配すら見せたという。
北条氏房隊の前に南常陸では結城がいち早く降伏、その他の各国人は元々仲が悪かったのか国人同士で戦争を始めてしまう有様だった。
そんな中、北常陸の大名佐竹家を降伏を申し出て来た。ご隠居様は、先代・義重の切腹を条件に所領安堵としたが、俺が常陸北部では金鉄が出る事を伝え、久慈地方(金・銀)、大久保地方(金、鉄(現在の日立鉱山)を北条直轄領とするよう要請し降伏の条件に加えられた。
久慈地方といえば佐竹の本城太田城も含まれるから、これを聞いた佐竹は大いに驚いたらしい。結局、争い毎の絶えない南常陸への移転を提示し佐竹も止む無く同意したのだが、今度は俺が領有することになる千葉氏が支援している鹿島城主・鹿島氏からクレームがきた。
鹿島氏はもともと南常陸の有力国人だったが佐竹に追われて下総に落ち延びた時期もあったらしい。『何卒、旧領回復を!』と泣きながら懇願する厳ついオジサン達に困り果て、ご隠居様に相談したら『もう常陸全部其方にあげる』と言われてしまった。
北常陸は金銀鉄ウランが取れるから欲しかったが、南常陸なんてそんなに貰ってもなぁ。まあ垪和のおじ様に頑張ってもらおう。佐竹は伊勢の家臣、北条の陪臣となる事で了承した。
北条氏忠隊の下野は元々同盟関係だった烏山城主・那須氏と連携し、瞬く間に下野全土を支配下に置いた、宇都宮氏は降伏を申し出たが篠井金山の割譲と山城である多気城の廃城、 宇都宮城周辺のみ所領することで降伏を認めた。
下野についてはもう一つ、やっかいな相手がいた。それは日光山の僧兵達である。古来下野の山岳部を信仰してきた彼らだが、実は俺は下野上野の山間部でやりたいことがあったのだ。何とか彼らと良好な関係を構築できないだろうか?
結局、下野は東部は那須氏、西部は北条氏(日光山は北条が寄進し保護)、宇都宮城周辺宇都宮氏となった。
北条氏照隊が攻略というより通路として利用した上野は、元々、北条領だったので小田原籠城組の城主が兵を連れて既に帰還しており、小田原戦の発端となった名胡桃城も主の真田氏が北条の家臣となっているので問題なく開け渡された。
北条氏照隊の攻略地越後は唯一戦闘が予想された地域だったが、一万もの兵を小田原に派兵し一人も帰国しなかった越後に戦う力は最早なく、下越の揚北衆・新潟三ヵ津、中越各城も向こうから恭順を伝える使者・当主本人がやって来た。残るは上越の名城・春日山城だったが、上杉方から八王子で捕縛されその後北条家臣となった甘粕景持の開城説得が功を奏し、無事、降伏開城した。この後、佐渡、越中も恭順の使者を送ってきた為、これで鎌倉以来の名族・上杉氏は名実ともに完全に滅亡した。
また、既に加賀・能登・越前を征服していた弟・氏邦は春日山城に訪ねてきて、氏照さんと久々の兄弟対面を果たした。氏照に帯同していた元鉢形城の氏邦の家臣達は、そのまま金沢城に向かい再び氏邦配下となった。合わせて、越中の東部は氏照、西部は氏邦の差配域とすることが確定した。
下越、佐渡を重視していた俺は、これらの地が全く戦争することなく北条配下に加わったことに安堵した。
北条直重(千葉直重)を主将とする上総・安房攻略隊もまた、全く戦は起きなかった。というのも、里見家臣・正木頼忠が当主・里見義康の首を持って降伏してきたからだ。頼忠は幼年時代を人質として小田原で過ごしており、妻は北条氏隆の娘という関係にあったので、元々親北条だったのだ。頼忠は上総の里見領を伊勢氏に譲渡、自身は安房一国を治める事に了承し、房総仕置きは簡単に終了した。
北条氏光を主将とする甲斐信濃攻略隊も同様な状況だった。家康に従い小田原に出征した城主・兵は大部分が未帰還となっており、唯一、帰国できた信濃の諏訪頼忠・頼水父子が小田原での恐怖の体験を訪ねて来る信濃の国人に広めたため、帰国を支援した甲斐の国人衆共々信濃衆は臣従した。
親方様の駿河・遠江・三河遠征軍は予想通り全く戦闘がなかった。何しろ家康の娘・督姫の夫が主将を務めている上、家康の子・長丸の新たな傅役となった徳川重臣・本多忠勝まで加わっているのだ。
三国とも抵抗どころか歓迎歓待の連続だったそうだ。相良油田を確保できて俺も大安心だ。可哀そうだったのは九鬼水軍だ。海上封鎖を行って武功を立てようとしたが、活躍の場が全くなかったそうだ。只、尾張の津島から北条と繋ぎを付けて欲しいと頼まれたらしい。商人は逞しいね。
更に九鬼水軍、津島の商人衆の求めで、領主・織田信雄が行方不明となっている伊勢・尾張までもが北条領に編入されることが決まった。
その上、美濃の国人衆も城主不在の城が多く北条に帰属したがっているという。
確かに、美濃は
軽海城・一柳直末 山中城攻めで戦死
大垣城・羽柴秀勝 小田原で行方不明(死亡濃厚)
岐阜城・池田輝政 小田原で行方不明(死亡濃厚)
犬山城・織田信雄 小田原で行方不明(死亡濃厚)
金山城・森忠政 小田原で行方不明(死亡濃厚)
という状態だったから不安に感じても無理はない。
結局、親方様一行は3国仕置きの筈が、伊勢、尾張、美濃を加え6国を接収することになり、家臣が足りないと悲鳴をあげる事態となった。
とりあえず、我が伊勢家の家臣になる予定だった伊勢松坂城主・蒲生氏郷は伊勢家家臣のまま松坂在城を認められた。これは伊勢神宮への参道を有する松坂城を「お天道様」なんて通り名を付けられた俺の領地とすることで神宮との繋がりを密にする狙いもあるようだ。隣の志摩鳥羽城は九鬼水軍の城だから謀反の心配もないとされた。まあ風魔か三つ者の監視は付けるけどね。




