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1590年8月15日 北条氏邦挙兵

元鉢形城主・北条氏邦。前田利家に助命された後、能登の寺に身をよせていたが、風魔を通して関東の状況は手に入っていた。


既に加賀能登の城主前田利家は北条に降り、金沢城の留守居役に北条の将の差配をうけるよう利家名で証文が来ていることも知っていた。そして、加賀・能登・越前・越中4国の太守として自分が入るよう小田原から指示も届いていたのである。


ところが、金沢城留守居役の高畠定吉は、


『御屋形様のご指示は、北条の将の着任を受け指示を受けよとのことにございます。氏邦殿は既に御屋形様に降った身、つまり前田家の家臣であります。しかも僧籍に入っているので北条の将としてお認めするわけには参りません』


の一点張りで話にならない。


ついに小田原から親方様(氏直名)で氏邦を還俗させ、北陸4国の太守とすることが通達されたが、留守居役・定吉は『御屋形様(前田利家)からは、聞いていない』とし、一度利家を加賀に帰国させ真偽を明確にして欲しい旨、返書している。


既に、北条に降っている利家を未だに『御屋形様』とする定吉の態度に元々家内随一の猛将・氏邦の堪忍袋の尾が切れた。


実を言えば、定吉は氏邦を舐めていたのだ。能登の寺に僅かな近習と共に滞在している氏邦には無理を言っても何もできないと思っていた。


そのうち、利家の仕官先が確定したら、金沢城内の財産を持って利家に合流しようとの腹積もりだった。




北条氏邦挙兵!!




の報を聞いても定吉は鼻で笑っていた。氏邦が動させる兵なんて加賀にも能登にもいる筈ないと思っていたからだ。


定吉が腰を抜かしたのは、金沢城が包囲されてからだ。北条の三つ鱗の旗とともに「南無阿弥陀仏」の旗が見える。当に根絶したと思われた、かつて加賀で猛威を振るった一向一揆の大軍が突如復活したのである。


氏邦に呼応して兵を出したのは金沢の慶覚寺である。慶覚寺宛てに法主・顕如、息子・教如名で挙兵を通達する証文が届いたのである。


届けたのは氏邦の近習として帯同していた風魔の者である。流石に法主と教如二人からの証文を突き付けられては慶覚寺も無視はできない。最盛期には遠く及ばないがそれでも5千の兵を動員し氏邦に派遣した。


定吉は慌てて開城し命乞いをしたが、氏邦の怒りは収まらずその場で斬首され、氏邦は金沢城に入った。本願寺の兵を率いた僧兵の将は七里頼周、下間頼龍、下間仲孝といったかつての一向宗の武将の名を勝手に名乗り、氏邦の補佐として北陸仕置きに加わっていくことになる。


この3名の僧兵は元々とんでもない乱暴者で慶覚寺でも持て余して気味だったらしい。追い払うのに丁度良いので氏邦にくれてしまったというのが真相だ。


そして、北陸での氏邦挙兵の報を聞いて、京都聚楽第に留守居として留まっていた毛利輝元は逃げるように安芸に引き上げていった。

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