1590年7月1日・忍城の戦い・北条氏照隊
八王子城を防衛してから僅か8日、氏照の部隊は忍城に迫っていた。
この間、八王子で投降した前田利家父子、上杉景勝とその重臣、逆臣・大道寺政繁ら旧北条の武将を牢に入れ、一般兵の武装解除と手足を縛って拘束し、各曲輪に分散して閉じ込めた。
小田原から北条氏規を主将とする、捕虜の受け取り隊が来たのは27日の事だった。
氏規は津久井城で徳川残党と交戦しこれを打ち破ったが、敵兵の殆どが重症で、捕虜として連行できたのは本多忠勝、河窪信俊、酒井家次の僅か3将に加え兵は千人程だという。
1万2千もいた敵兵の内、生き残った兵が僅か千人とはとんでもない虐殺ぶりである。
戦働きは不得手と思われた舎弟氏規の意外な一面を知り氏照は何とも複雑な気分だった。
最も氏規にしてみれば、助けられたのが僅か千名という心境だろう。
衛生兵も輸送車両も存在しない、この時代、容態の悪い人間を安易に捕虜として匿えば、疫病の蔓延を誘発する危険があるのである。
氏規は捕虜となる将が少ないので兵千を付け3将を小田原に回送。
出血が少なく山城である津久井城まで自力で登れる者のみ捕虜にし、捕虜兵は手足を縛り津久井城の曲輪に押し込め隔離した。死兵や出血の多い兵は相模川に棄てたり、周辺の森林近くに放り込み後は野獣に任せ、兵4千と共に八王子城に捕虜受け取りに来たとのことだった。
これで、牢に居る将達は氏規に託せることになったので、氏照、氏房は隊を編成し直し忍城の救援に向かうことになったのだ。
因みに北条氏房は自らの城・岩槻城に一度立ち寄るとの事で今はここにはいない。斥候によれば攻略軍はおよそ2万。城の周囲に堤防を築き水攻めをしているという。
対して氏照軍は約1万、新型炮烙玉の在庫は40程度である。
八王子から忍城まで一万もの大軍を率いて僅か5日というのはかなりの強行軍である。氏照は副将として随伴してきた本来の忍城主・成田氏長と泰親の兄弟に意見を求める事にした。
「その方ら、忍城周りの地形について教えてくれ」
代表して氏長が答える。
『は、付近には利根川・荒川が流れておりますが、城の周囲には山などなく、水攻めというのは些か不自然であります。
堤防を築こうとしても坂東太郎(利根川)の水圧に負け流されてしまうのではないかと』
「然らば、敵が水攻めを試みている間は忍城はまだ保つと見るか?」
『は、左様に思います』
「城の兵糧はどうだ?」
『城兵は3千程度です。まだ暫く保つと思います』
そう聞いて、氏照は一旦兵を休ませることにした。
今、氏照隊1万が居るのは松山城である。豊臣方に落とされた後は無人同然だったので労せずして占拠したが、城下は激しい乱取りにあった跡が見られ給水以外の補給は望めそうになかった。それでも領民は豊臣勢に怯えていたのか、北条の三鱗の旗を見るや、大歓迎してくれた。
平城である忍城周辺での野戦では頼みの新型炮烙玉も使用機会は少ないだろう。
となると、2万対1万、人数の不利はそのまま戦の不利となる。
思案にくれる氏照だったが、”水攻め”から思い出した事があった。
敵は既に城下の乱取りを終えている。
つまりこれ以上の補給はない。
ならば、まずは、荷駄隊を徹底的に狙おう。
斥候から本陣は古墳の丘の上に位置し、気づかれずに近づくのは無理と聞いていたが、荷駄なら兵への補給を考え平地に置くだろう。
氏照は風魔に敵の荷駄隊の位置、その付近に潜伏可能な森林か丘がないか調査するよう命じたのだった。
下記、挿絵は吉見町埋蔵文化財センター様の御厚意により「松山城跡パンフレット」より転載させて頂いております。戦国期の城の縄張りが良く現れてますね。
北条氏康、武田信玄、上杉謙信、錚々たるメンバーがしのぎを削った松山城ですが、
挿絵をご提供いただいた埼玉県比企郡吉見町のサイトには、同城の詳しい沿革が載っております。
お時間あれば是非ご覧ください。
https://www.town.yoshimi.saitama.jp/soshiki/shogaigakushuk/7/431.html




