1590年6月11日・山中城の戦い2
虎口から登った先にあるのは兵糧庫だ。ここの守備兵もあまり多くなく、音の出ない新型種子島によってたちまち制圧できた。
この曲輪を登ればもう本丸下部である。やがて、知らせを受けた氏直以下本隊も合流してきた。
いよいよ本丸への門を開けようと身軽な先方衆が塀をよじ登ったその時、本丸側から種子島の一斉射撃が放たれた。塀に登った兵は即死、いつのまにか、塀上には敵の砲兵が二列に整列している。
北条軍は蒲生氏郷・宇喜多秀家によって誘き出されたのである。
不利を悟って退却しようとした北条軍であるが、いつの間にか南虎口は敵軍によって完全に封鎖されているという。三の丸・出丸からやってきた兵だろう。
こうして、北条軍は再び挟撃を受ける事になった。
しかも、昼間と違い、今度は逃げ場がない。
当主氏直の本隊は最後尾に位置していたが、南虎口が押さえられたと知り、後方に種子島隊500名が派遣された。兵糧庫曲輪から南虎口への坂は細く、しかも上から撃ちおろす格好になるので、十分対応可能との判断だった。また、残り少ない新型炮烙玉は本丸に向けて、都合3発放たれ、大きな爆発を引き起こした。これは、予想以上に敵を警戒させたようで、本丸側からの銃撃は激減した。
こうして、戦況は膠着状態に突入していった。
このまま、小田原からの援軍を待つのか、再度、本丸突入を敢行するか氏直、氏房、氏光で話し合うがなかなか意見がまとまらない。
その時、南櫓の方から鬨の声が上がった。南櫓は駿河方面に位置している。敵の増援が来たと思った北条方は絶望的な気分になった。
だが、その後、戦況は北条方の予想もしない方向に動くことになる。
まず、南虎口で銃撃戦をしていた敵兵がいなくなった。
次いで、鬨の声が三の丸から上がるようになった。三の丸は兵糧庫曲輪の隣に位置しており、松明を掲げた軍勢の中に軍旗も見えた。それは紺地に金の丸。隊列は三の丸から二の丸へと昇っていく。やがて、本陣が見えてきた。掲げられている軍旗は笹の家紋。伊達家だ。しかし、奥州の伊達が何故ここに?伊達は北条と長年同盟していたが、つい先日、秀吉に降り恭順の意を示すために箱根に参陣したと聞いたが・・
やがて三の丸と本丸との間で銃撃戦が始まった。
つまり、伊達と豊臣方が戦っているということである。
依然困惑する北条軍だが、氏直本陣に伊達の使者が現れた。南虎口の突破に成功し登って来たらしい。
氏直は使者と面会することにした。
使者は留守政景るすまさかげと名乗った。使者というが相伴衆10名も含め、身に着けている武具などからかなりの人物とわかる。
『伊達家先代御屋形の弟・留守政景と申します。現在は当代御屋形様の旗下で主に外交を担当しております』
先代の弟、つまり当代の叔父というわけか。これは大物だ。
その後、留守政景から今回の経緯を聞いた。
伊達の当主政宗は箱根に確かに参陣したが、秀吉に遅参を責められ、面会を許されず底倉温泉に蟄居させられていたこと。
政宗も秀吉を信用しておらず、箱根には小勢で参陣したが、万一に備え甲斐に一万の兵を置いていたこと。留守はその甲斐に残した兵をまとめていたそうだ。
伊達の忍び黒脛巾組が風魔から秀吉奇襲を知らされ、政宗一行は底倉を脱出甲斐に逃げ本隊と合流したこと。
その後、小田原城の合戦で豊臣方が大敗したことを黒脛巾組から知らされ、清水港の物資を狙いに南下していたこと。
黒脛巾組の調べで清水港には秀吉方の大型船が多く停泊しているのが分かっており、一万の大軍でも分散すれば乗船可能だったので、物資を略奪してそのまま船も徴発して帰国するつもりだったらしい。
佐竹、宇都宮という関東勢と仲の悪い伊達としては陸路で帰るより安全と考えていたそうだ。
因みに往路は関東勢の領地を避け、越後、信濃、甲斐を経由してやって来たという。
成程、豊臣の大軍の歴史的大敗を知れば、一刻も早く国元に帰りたいと思うのも当然だろう。
その南下の途上で先行していた黒脛巾組から山中城で合戦が有りそうなこと。しかも北条方の大将は当主氏直と知って加勢に来たとのことだった。
到着後は南櫓にも出丸にも兵がいないので容易に入城、合わせて銃声がしている方向に斥候を出したところ蒲生軍が城内に発砲してることがわかり、別動隊を編成して蒲生軍が横から急襲、虎口を確保し、北条への使者隊を編成し面会にきたとのことだった。
やがて、伊達軍・北条軍の攻撃を受けてついに本丸は降伏開城した。
勝軍の将は北条氏直・伊達政宗、敗軍の将は蒲生氏郷・宇喜多秀家
本作には極めて珍しい、有名戦国武将の御揃いである。
これらの挿絵は、三島市教育委員会様のご厚意により山中城跡公式リーフレットより転載させていただいたものです
2枚目のイラストの中央下部分に路地があります(山中新田と諏訪駒形神社の表記がある間)が、これが往時の南虎口です。
三島市の山中城のサイトにはお借りしたイラスト以外にも、発掘調査の記録や見事に復活した北条流築城術の障子堀など興味深い資料写真が収められたリーフレットが載っています。お時間あればご覧ください
https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn033080.html




