1600年8月 幕間・摘発
本日まで毎日更新を続けてきましたが、次章がまだ書きあがっていないこと。7月はプライベートが多忙な事もあり、しばらく休載とさせて頂きます。
次章が書きあがり次第連載を再開いたします。
素人の妄想小説にお付き合いくださり有難うございました。
渤海国はその後内乱もなく順調に船出し日ノ本の拠点であるウェジや大慶油田等との国境も取り決められた。大慶油田では精油施設、ヘリポート等建設が順調に進んでいるという。これでシベリアへの本格進出にまた一歩近づいた事になる。
そんな何もかも順調に思える大陸とは裏腹に、日ノ本ではある大きな事件が発生していた。それは一冊の本から始まった。この時代、本の出版は大仕事である。基本は手書きで写すことになるからだ。活版印刷はあるものの使用できる漢字に限りがある上、そもそも幕府が独占しているので、一般の作家が使用できるものではない。江戸時代に有名になった瓦版もまだない。
その本が最初に出版されたのは今から4~5年前らしい。生活にゆとりのある庶民の間に徐々に広まって行ったので正確な初版の時期はもう分からないそうだ。問題はその本の内容である。20年前に滅亡した甲斐・武田家の合戦碌というか軍記物小説なのだ。書名を「甲陽軍鑑」と言う。甲が甲斐を表すらしいが、甲斐軍艦とか武田軍艦ではなかったので幕府は発見が遅れた。
幕府を担う北条家にとって武田家は決して思い出したくない禁忌ともいうべき忌み嫌う家だ。何しろ、婚姻を結び親戚になったのに二度も一方的にしかも電撃的に同盟破棄して攻め込んで来た卑劣極まりない家なのだ。「甲陽軍鑑」はその武田家を主人公に書かれた英雄譚であり軍記物小説である。幕府では発見次第取り上げ焼却処分にしているが中々出版元が特定できなかった。
だが、信州・深志で先月、漸く出版元に繋がる糸口を発見、義浪党の一部の冒険者や且つてこの地で活躍した真田衆も加わり密かに内定作業を繰り返していた。
そして今月、ついに出版拠点の特定ができたのである。拠点は二か所あった。一つは長野の善光寺、もう一つは諏訪大社だ。どちらも、宗教に非協力的な幕府のせいで財政は困窮しており、門徒らを動員して手書き出版をしている事が判明した。
善光寺はどこの宗派にも属しておらず墓地もなく檀家もいない。長きに渡る戦乱で本尊も紛失し、大変な苦境に立たされていたらしい。浅間山大噴火時に避難所を提供したのもあわよくばこれを機に幕府と誼を通じて財政援助を、という目論見があったというが、結局、その願いは叶わなかった。それどころか説法禁止令まで出されいよいよ追い詰められていた。
もう一つの諏訪大社は織田信長の甲州征伐で焼かれ荒れ果てていたが、やはり寄進する者は現れず、こちらも困窮の極みだったという。諏訪地区は従来は宿場としての存在価値もあり泊り客などがおり、土産に御札を買っていく人もいたようだが、天竜川や木曽川の運河開通で宿泊する人が激減してしまい切羽詰まっていた。
どちらも同情の余地がある事情ではあるが、だからと言って幕府の仇敵・武田家を主人公にした小説を認める分けにはいかない。深志の義浪党が諏訪大社に、上田の義浪党から善光寺に冒険者を派遣して一斉摘発の運びとなった。夏の早朝の朝駆けに両者とも対応できず、住職、宮司以下寺や神社で寝泊まりしている者、全員が逮捕され、元本の所在など広大な敷地を徹底的に調べられ、それぞれ大型の柳行李100個程の品を押収した。現代の検察の強制捜査を彷彿させる光景だった。
押収した資料の捜査、逮捕した人間の尋問などから、結局、小説の元ネタは旧武田家の家臣だった高坂昌信の家来が残した日記だということが分かった。その日記に着想を得て小説風に脚色したのが諏訪大社にいた山本勘助なる文筆家だった。小説の中で語り部として登場する人物と同じ名前である。
日記を書いていた人物は足軽だったらしいが、相当な筆マメだったらしく、物見や記録係を担当した人物と推定された。その日記の元本も押収した資料のどこかにあるらしい。
これらの捜査結果は内務省に送られ裁可を委ねられたが、結果、善光寺は廃寺、諏訪大社は上社、下社とも廃社となった。
この一件、特に信濃一宮にして式内社である諏訪大社の廃社は全国に衝撃を与えた。
慶長への改元の詔から凡そ4年、当初は全国の寺を震撼させた仏寺の改革だが、この頃には『神社に商売変えしてしまえば大丈夫』という弛緩した雰囲気になっていたのだ。神仏習合のこの時代、寺から神社への鞍替えは然程難しい事ではなかったのだ。だが、神社であっても幕府に睨まれたら潰されるとなれば話は変わってくる。特に由緒ある式内社であり記紀にも名が出てくる諏訪大社の取りつぶしに、日ノ本の宗教界は再び緊張に包まれた。実際、その後各地の門前町から、
・町内の寄り合いで〇〇神社の御札を高額で買うよう言われ、断ったら村八分にされた。
・〇〇神社の若い者が托鉢と称して、家を訪ねてきて金品をねだり中々帰ろうとしない。
・〇〇神社で婚礼を上げたら事前に取り決めた額の数倍の法外な金額を請求された。
・〇〇神社の神主は付け人を連れて頻繁に娼館に出入りしており、神事も碌に執り行っていない。
等々、目安箱に神社への苦情の投函が激増したのだ。
これを受けて幕府では、神社へも義浪党を通して監視や捜査を強め、特に苦情の多かった神社は廃社にした。その数は全国で100社に及んだ。特に末社が複数廃社になった社では総本社にも警告が行われ、改善されなければ総本社の廃社もあり得ると警告した。
ところで、「甲陽軍鑑」の執筆者だった山本勘助だが、幕府の勧めで刑を問わない代わりに北条氏の小説を書いて貰う事になった。現代風に言えば”司法取引”だ。というのは、「甲陽軍鑑」は純粋な娯楽小説として読めば、とても面白い物語だったからだ。曰く、「大将同士の一騎打ち」、「啄木鳥戦法」彼の文才を惜しむ声は内務省内からも上がっていた。この後、山本勘助は「相州軍艦」「北条五大記」「小田原崩れ」などの小説を発表し、日ノ本初の職業作家として活躍していく事になる。
清少納言、紫式部って職業作家に入るんですかね?どうなんでしょう?




