1600年5月 太監(たいかん)・高淮(こうわい)
仇敵、馬林と李植を遼東半島から追放した高淮は護衛10人と共に意気揚々と撫順に帰還の途に就いた。
北京から遼東半島に出るには万里の長城最東端の山海関から海岸線を縦断するルートしか存在しない。そして、海岸線と言うことは倭寇の勢力圏内だとも言えるのだ。何しろ、明の水軍は倭寇に手を焼き長年翻弄され続けてきたのだ。
政敵を排除し有頂天の高淮はそんなことは夢にも思わず北京に赴いた時と同様、護衛と共に海岸線を行く。そして、夕暮れ時に倭寇船に拉致された。護衛は勿論殺害され沖合で投下されている。
薄暗い船内で後ろ手に縛られた高淮の前に一人の女性が姿を現した。大将軍・直光の正室・夕だ。だが、ここにいる夕は歩き巫女の長・夕である。
彼女は高淮にいくつか質問する。
(1)2年前、遼陽の裏町で主婦1人、男2人、宦官1人の変死体が発見された事件について知っている事はないか?
(2)遼東半島の高官が横領を働いた裏帳簿も存在を知っているか?
(3)明の密偵が使用する暗器について知っているか?
高淮は倭寇らしからぬ質問に困惑するが、全て『知らない』と白を切った。
夕は今一度(1)を問う。高淮は宦官の変死体と聞いて、自分の部下の事だろうと推察していたが、それ以上詳細は本当に思い出せなかった。
隠形に徹する歩き巫女が殺害されることは滅多にないが、万一、殺された場合は、どれだけ時間を掛けようとも、犯人を探し出し復讐するのだ。これは、歩き巫女が発祥した頃からの伝統である。
夕の一連の質問は取り調べではない。既に高淮が宦官の密偵の元締めであることは調べが付いているのだ。彼女は質問したのは高淮の処刑内容を決める為である。彼がもし素直に白状していたら、もう少し楽に死ぬことができただろう。だが、彼は白を切るという最悪の選択をしてしまった。
翌日の船内、自殺防止用の猿轡をされ全裸で大の字に磔にされた高淮の恥骨目掛け、倭寇が代わる代わる、蹴りを放つ。彼らが履いているのは、この時代の日ノ本ではまず見かけない革靴である。畜産が盛んになると共に作られだした新しい品だが、先端には鉄の大きな棘が付いている。現代の人が見たらプロレスの『凶器シューズ』を連想する人もいるかも知れない。
『玉をなくした事を後悔するがいい』
倭寇達は薄笑いを浮かべそう言いながら恥骨を蹴り上げ続ける。
実際、睾丸が付いていたらこれだけ蹴られ続けたらとっくに絶命している事だろう。
だが、宦官の高淮は苦悶の呻き声を上げるのみだ。
どれくらい時間が経っただろう。既に高淮の恥骨は砕け、蹴りは内臓に直接届いている。やがて、痛覚すら正常を保っていないのだろう、高淮は呻き声も出さなくなった。脈はあるし心臓は動いているが、両手の小指を切り落としても全く反応がなくなった。それを見た夕は、拷問の終了を伝えた。
とは言え、高淮の命が助かった訳ではない。船内に潜んでいた狼の遅い朝食の餌となったのだ。風魔の狼使いに操られた狼は人肉の味を覚えても指示が無い限り人は襲わない。その代わり、『食え』と指示されれば、死肉だろうが生きた人間だろうが容赦なく食べるのだ。
狼の朝食の光景を眺めながら夕は日本語で呟いた。
『愚か者ね。正直に話していれば無駄な苦痛を味わうことなく、最初から狼の餌になれたのに』
そこには、大将軍の正室としての日頃の気品溢れる姿は無かった。
倭寇船で凄惨な処刑が行われている頃、遼陽に戻った馬林は配下の将を集め、北京での高淮の卑劣な所業を説明した。そして、換言に乗った万歴帝から自分が総兵官を解任された事。新たな総兵官は李成梁である事を伝えた。李成梁はかつて遼東の総兵官で女直に睨みを利かせていた武人だが、戦功の捏造や賄賂の噂の絶えない人物でもあり、そもそも、現在は齢70を超えた老人だった。
この為、李成梁の復帰を嫌う者、年齢から現在の実力に疑問を持つ者も出て、馬林に従い新たにできた大国・女直に逃げようとする将も多く出た。明を逃げ出す者が出るほど、高官3者による権力争いで遼東半島の統治は乱れ大きく荒れ果てていたのだ。結局、遼陽以下、瀋陽、開原、撫順、海州、清河といった遼東半島の主要部の将は皆、明というか万歴帝の元を離れ馬林に付く事を決めた。これを受けて馬林は女直に使いを送った。馬林の使いは倭寇であり、実態は世鬼である。
*ウェジ 征西将軍・伊勢直雷*
世鬼から遼東半島の明国の諸将が女直に合流したがっていると聞き、俺は直ぐに、
・各将は馬林経由で女直の女神バナムハハに忠誠を誓紙を提出する事。
・各将の親族一名を女神が住むホイファに人質として出す事。
を指示した。
一方、女直には女神バナムハハ名で、
・女神に降った遼東半島の将の領地は安堵するので侵してはならない。
・明国の総兵官・李成梁が兵を率いて遼東半島に現れた際は、馬林に援軍を送る事。
を指示した。
実際問題として、フルン各部は2月から戦続きで遼東半島に攻め込む余力は無かったので、派兵が援軍に留まるのは彼らにとっても好都合だったのだ。
そして、妻の甲斐に、最後の仕事、女神アブカハハ役を頼んだ。甲斐は予想外に嬉しそうだった。
妹夕はどおしているのでしょう?




