1598年5月31日 明国・遼陽Part2
家路を急ぐ事、10分程。深夜の人通りのない道を歩いているにも関わらず後ろから気配がする。それも複数。明国にも諜報を生業とする密偵はいる。
「どうやら、今回はお客さんか」
彼女は苦笑交じりに呟き、更に細い裏路地に身を潜めた。
お客さんは全部で三人いた。自分が入って来た角から一人、反対側から一人、もう一人は路地に面した家の屋根の上にいる。
「こんな夜中に何の用だい?」
間違っても日ノ本と通じている事が知れては拙いので明語で問うた。
『懐の大事な物を返してもらおうか』
反対側から来た一人が明語で返してきた。
「何も持っちゃいないよ。それよりあんた達、こんな夜中に女漁りかい。あたしはそんなに安くないよ」
壁を背に左右の相手を交互に見据える。屋根の男に動きはない。
『お前女だったのか。じゃあ、後でゆっくりと遊んでやるよ』
反対側から来た男は淫靡な笑みを浮かべて答えた。もう一方は相変わらず無言だ。
やがて二人の男は射程距離に入って来た。その時、屋根の男が上から物を投げつけて来た。咄嗟に身を屈め躱し、そして屈んだまま左右の二人の男の股間を真下から両の手でかちあげた。拳ではなく手の甲で肘から先を鞭のように撓らせての一撃だ。更に股間に手の甲をぶつけたまま素早く手を引き抜く。これをやると睾丸はただ強打されただけでなく圧迫され弾かれたような格好になり痛みは倍化するという。
女が単身で武器も持たず潜伏任務を行う歩き巫女にとって股間の急所を狙う術は荒事になった際、ほぼ唯一の生命線である。それだけに様々な手段を熟知しているのだ。
利き腕の右手で喰らった男は失神している。左手で喰らった男も口から泡を吹いて転倒・痙攣している。二人の男を見て暗器の投擲だけでは要を成さないと判断したのだろう。屋根の上の男が路地に降りて来た。着地と同時に再び暗器を投げてくる。何か針のような尖った武器だ。しかし、こんな玩具のような武器では歩き巫女は仕留められない。あっという間に躱され、後ろに廻られ、股間を蹴り上げられて最後の男も倒れた。
彼女はこのまま逃げようか迷ったが、三人とも制圧済みであるので彼らの身元を確認できる物がないか体を弄ってみる事にした。上手く見つかれば脅迫のネタに使えるかも知れない。
先ずは最後に仕留めた屋根から降りてきた男を仰向けにさせる。
――!!
男は体を仰向けにされた瞬間、小刀を彼女の左胸に突き刺して来た。
「馬鹿な?確かに股間を蹴りぬいた筈」
例え失神していなくても歩き巫女の技で股間を強打されたのだ。呼吸も視界も奪われ虫の息の筈。反撃など出来よう筈がない。
「まさか!」
彼女は一瞬頭によぎったが考えを捨て、懐から注射器を取り出すと蝮の毒を男の頸動脈に注射した。やはり、男も無傷ではなかったのだ。抵抗らしい抵抗を見せる事も出来ず男は蝮の毒を注入された。これでこの男の死は確定だ。
頭領から切り札として預かったプラスチック瓶の蝮毒と注射器をまさか使う事になるとは!
左胸の小刀は心臓には達していないが深く刺さっている。もし抜いたら一気に出血し意識が持たないだろう。彼女は小刀に毒が塗られているのに気づいていながら、敢えて抜かず、失神・痙攣している残り二人の男にも蝮毒を注射し、一羽の鳩を取り出すと、裏帳簿の入った竹筒を鳩の足に目立たぬように括って解き放った。鳩は夜間は飛行しないが、民家の軒下などに身を潜め日の出と共に目的地に飛び立つ筈だ。そして、最後の力で注射器のガラス管を砕きプラスチック瓶と共にドブに棄てた。
*数日後 山海関の娼館*
万里の長城の実質的東端である山海関の周囲に広がる町は明の軍人始め海の荒くれ者が犇めく非常に男臭い所である。それ故に娼館にとっては稼げる地でもあり、多くの館が凌ぎを削っている激戦区でもある。
そんな娼館のとある一室の窓に一羽の鳩が降り立った。歩き巫女が経営するこの娼館には普通は伝書鳩は到来しない。ここは情報を収集する場であり、情報が到着する場ではないのだ。
ここに伝書鳩が来るとしたら答えは一つ。歩き巫女が死亡したという事を意味している。娼館長の歩き巫女は窓を開け鳩を手にすると足を確認した。小さな竹筒の中は容易に取り出せない紙束が詰まっている。更に足に結ばれた紐の色は赤だ。これは遼陽から来た鳩だという事を意味している。つまり、遼陽の歩き巫女が竹筒の情報と引き換えに死亡したのだ。
山海関から博多までは凡そ千㎞だ。途中には朝鮮半島始め羽根を休める場所が多くあり、過去にはこの距離を伝書鳩が飛んだ事があるのだが、娼館長は万全を期して港側の船会館宛てに竹筒を括り付けた伝書鳩を飛ばした。その船会館は表向きは普通の会館(会社)だが、世鬼が切り盛りしている倭寇が隠れ蓑にしている会館だった。
こうして、程なく遼陽の歩き巫女の死と竹筒に入った情報は日ノ本に回送された。




