1598年4月24日 ウスリースク
当時の女真人が何と呼称していたか分からない地名は、中世感が乏しくなりますが、止む無く全て現代のロシア語表記とします。清朝時代の満州語呼称が判明した地名もありますが紛らわしいのでこのようにしました。
日ノ本は春麗の良い気候であり、この時代はヤエザクラだが桜前線も十三湊近くまで徐々に上昇中である。だが、大陸側はまだまだ寒い。2月に羽黒党、真田衆が収集した情報は伝書鳩で十三湊に送られた。10羽飛ばして到着したのは3羽、厳しい気候の冬の日本海をよく超えて来てくれた。
現地の住民に女神信仰があると分かり、この地の調略には伊勢直雷・甲斐姫夫妻を総大将とする事に決まった。今や5人の子だくさんとなった弟・雄二夫妻だがそろそろ現場に出てもらうことにした。同行するのは津軽為信とその家臣達。秋田実季とその家臣だ。彼らの様に家単位で仕官してきた武将はかなり多い。
船団はガレオン船二隻に木馬ヨット4隻を搭載して十三湊を出航した。旧秋田領の土崎湊から仕官した水軍衆、旧津軽領の外ヶ浜から仕官した水軍衆はもうガレオン船や木馬ヨットの操舵にも精通している。既にディーゼル船はあるのだが、燃料補給の関係から遠方に行くには未だ帆船が主力である。乗員には三つ者から指導を受けた施設部隊200名が乗船している。
船団はウラジオストク沖からアムール湾に入り大河スイフン川を遡上する。この大河は12月から3月までは薄い氷に覆われており以前であれば、解氷間もないこの時期の遡上は危険極まる行為であるが、現在のガレオン船は船底から船首に掛けてチタン合金で覆われており、万一氷塊に激突しても氷が粉砕されるだけである。
十三湊を出航しておよそ20日、4月24日にウスリースクに到着した。先触れで入っていた羽黒党、真田衆は既に人足を集めてくれていた。女真人始め、明人、朝鮮人他ツングース系民族者が雑多にいるが全員女真の言葉を話すそうで通訳を務める歩き巫女の女真人女性は既に崇拝に近い信任を得ていた。
というのは労働の対価を銀で支払うと約束した為だ。元々、明国は銀が基軸通貨だったが南蛮船を通しての日本からの銀の流入が激減したうえ、アカプルコガレオンによるエスパーニャからの銀もここ二年来航していないので深刻な銀不足に陥っていたのだ。
どうやらこの東北部地域はかなりの貧困状態にあったらしい。野人女真と称された一因は貧困による治安の悪化もあったのではないか?
現地の人足およそ千名は女真人歩き巫女により簡単な日本語教育を受けていた。施設部隊200名が彼らを指揮し、ここからハンカ湖までの運河建設が始まった。
隊は二つに分けられ、一隊はダイナマイトでハンカ湖までの運河を、もう一隊はハンカ湖の北方まで移動し湿地帯をスンガリ川まで掘削しコンクリートで固めていく作業となる。
彼らが作業している間、雄二夫妻や秋田・津軽の兵らは荒廃したウスリースク集落の治安回復を図る。この地域には銃は出回っておらず種子島や無音銃を装備した日ノ本兵を前に治安は直ぐに回復した。一度、朝鮮人の強盗団が銀を狙って現れたが全員射殺した上、首を跳ね町の周囲を囲む様に槍で刺して掲示した以降、犯罪はほぼ無くなった。
大慶油田までの運河開通の工期は凡そ半年、冬を迎えれば極寒となり土木工事など不可能になってしまう。雄二らは通訳を通し、随時、人足を募集し、人員の充足に務めていった。




