1598年1月1日 改暦
一昨年11月に即位の詔が発布されて一年余、和暦で言えば慶長3年元旦である。そして、この正月松の内を持って新暦すなわち太陽暦への改暦が行われる。
この時代の松の内は元日から15日までである。従って15日までで旧暦は終了。旧暦1月16日は新暦2月21日となるのだ。この一年、各地の辻々に改暦の案内が掲示され、特に新暦の1月1日に当たる昨年11月24日以降は新旧の日付を記した暦が各地に掲げられた。
尚、二十四節気(夏至など)や雑節(節分など)は幕府の有識者で話し合い従来通り旧暦を用いて定める事になった。俺はその辺は知識も関心もないのでノータッチだった。
公地公民と廃刀令は問題なく全国に普及した。
秀吉により刀狩が行なわれていたこと、地震や野分への対応を領地毎に実施することの限界を大名達も感じていたのだ。農民達にとっても土地の持ち主が大名から帝に代わっただけであり生活に大きな変化がなかった上、北条領内で使用されていた化学肥料やビニールハウスが全国に普及しだしたので大いに歓迎された。
一方、抵抗が予想された仏寺の改革だが、真っ先に行動を起こしたのは高野山だった。もともと、北条氏邦の乱で名前が取りざたされ幕府から睨まれているという意識があったのだろう。更に真言宗の都の拠点だった東寺が地震で倒壊し機能していないという事情も重なり、なんと仏寺から神社に改宗してしまった。その名も弘法神社という。神仏習合のこの時代、寺から神社への業態変更はさほど難しくなかったようだ。高野山境内には墓地もあるがそこには墓守を置いて管理していくという。袈裟を脱ぎ捨て宮司姿に身を改めた元座主(法主のこと)が都を訪ねて来た時は幕府もとても驚いたという。本院がそんな状態なので末寺は大わらわだったそうだ。真言宗の寺は四国に多いが檀家が多い所は霊園として存続、檀家が少ない所は弘法神社の末社となったと長宗我部氏親が言っていた。
高野山のこの動きが全国の寺院に与えた影響は大きく、有名な所では旧越前の永平寺は越前二宮剣神社に、日蓮宗の身延山久遠寺は旧駿河の浅間神社にそれぞれ協力を仰ぎ墓地に墓守を置き本院は神社へ転身した。箱根の北条家の菩提寺・早雲寺も北条歴代の当主を祀る早雲神社となった。また、鎌倉にある数々の寺も元々北条家の保護を得ていたので皆直ぐに従った。
寺で面白い動きをしたのは、奈良の興福寺だ。この寺には宝蔵院槍術を創始した胤栄という坊主がおり、説法より槍刀術の指南を得意としていた彼は冒険者義浪党の事を知ると興福寺に誘致し自分が院主を務める宝蔵院を義浪党に改修し冒険者になってしまった。ここに高野山にいた元僧兵達が冒険者として加わり、全国有数の義浪党になった。奈良には他にも南都六宗と呼ばれる古い寺院が多かったが何れも長かった戦乱で荒れ果てており幕府に逆らう力はなかった。
そんな中唯一、抵抗を示したのが斑鳩の法隆寺である。聖徳太子ゆかりの法隆寺は帝の血を引かない今上帝を良く思っておらず、度々幕府に苦言を述べ中々詔に従おうとしなかった。法隆寺は墓地もなければ檀家もなく説法や戒名の売り付けなどもしていなかったので詔の実害などない筈なのだが、とにかく幕府に反抗的だったという。幕府としても由緒ある建物を多く抱える法隆寺と事を構えたくはなかったが、法隆寺の管主らが幕府に説諭していると周辺の寺に吹聴して回っていることが判明、幕府も止む無く法隆寺を朝敵に指定し討伐することになった。




