1596年11月10日 改元
大評定から20日弱、新帝の即位の詔として”慶長”への改元と幕府の体制刷新が全国に発布された。
評定の場に居なかった新探題には事前に話をし内諾を得た。このうち、一番、渋ったのが九州探題を内示された小早川氏隆だ。小早川家は筑前筑後を領有しており九州内では大勢力だったが、やはり公地公民制を九州の諸将に徹底させられるか不安がっていたのだ。このため、中国探題を留任する毛利輝元も加わり説得にあたり、また、四国探題・長宗我部氏親から全面支援を約束するとの書状も届けられ、氏隆も最終的に就任に応じた。ただ、小早川姓では毛利の色が強すぎるとの判断で北条姓に戻りたいとの提案があり、これは毛利輝元も同意の上了承された。また、側近として外交経験の長い安国寺恵瓊の随行を求めこれも毛利輝元に許可された。
こうして、大評定から僅か20日余りで各種内容が詔として発布できたのは、以前、イエズス会が献上した活版印刷機のお陰である。全て楷書で印刷された詔書に次々と御璽が押され、各地に発送されていった。
山形城で詔書を受け取った新奥羽探題・最上義光は、探題就任の挨拶状を奥羽各大名に送付した。地震も火山噴火もない奥州だったが、幕府直轄地である男鹿半島、十三湊、阿曾沼領と他地域の発展の余りの格差に各大名は公地公民を受け入れ、十三湊が日ノ本最大の軍港として整備されると知るとこぞって武将として仕官の意を表明した。代官を選んだのは阿曾沼広郷だけだった。
奥州以上に詔に従わない可能性が高かった九州に対しては、新九州探題・北条氏隆の挨拶状を添えて、九鬼水軍、正木水軍の三胴船で九州各大名に直接届けられた。豊後地震に始まる相次ぐ余震で統治に疲弊していた各大名の前に見た事もない形の船が大筒を備え高速で現れたので、抵抗する大名は皆無であり、島津、大友、黒田、鍋島といった有力大名は統治から逃げるように武将になると即答していった。また、切支丹の有馬、小西は武将も代官も辞退し商人になりたいと伝えてきた為、一度、幕府に持ち帰り検討となった。
また、北肥後の加藤清正は幕府内の造営省に任官したいとの意を示したため、これも幕府預かりとなった。
一方、三胴船の脅威が届かない内陸部では混乱が起きた地域もあった。肥後人吉の相良頼房、豊後日田の志賀親次である。しかし、島津家の隠居だった島津義久が代官の地位を受け入れると知れ渡ると、相良、志賀ともこれを警戒し詔を受け入れた。相良は代官、志賀が大友から離れ武将として仕官した。
こうして大評定での決定事項は大きな混乱もなく全国に受け入れられていった。