1596年10月3日 急襲
佐倉城下の百石屋に急報が齎されたのは、深夜のことだった。しかも、伝令は伊賀者ではなく八瀬の者が伊賀者を伴い直接やってきたのだ。
三種の神器が新たにできた事は先月伝書鳩で鞍馬天狗に伝えていたが、今月一日、彼はついに八瀬を伴い各公家の館を急襲、公家衆の主・家族らは比叡山延暦寺の根本中堂仮堂に収容したという。
戦乱の時代に焼き討ちにあった延暦寺だが秀吉の時代に仮堂ではあるが根本中堂は再興していたのだ。最も嘗てのような屈強な僧兵がいるわけではなく、徐々に戻り始めた天台宗の僧達が読経をする位であるという。
俺は朝一で雄二、立花夫妻と共に弥助を護衛に九鬼水軍の三胴船で出港し、琵琶湖の畔にある大津に到着した。既に、伊勢湾から琵琶湖を結ぶ運河は開通しており、エンジン駆動のウオータージェット推進三胴船であれば、佐倉から大津まで僅か9時間である。
大津では伊賀者が出迎えてくれたが何と伊賀の頭領である百地丹波と服部半蔵も来ていた。九鬼水軍に三胴船の警護を任せ、ここからは陸路で延暦寺に向かう。湖岸の大津から山中の延暦寺までは半日掛かった。佐倉ー大津間より時間を要した事になる。
常日頃は影に徹している忍びだが、この山中では流石に人目を忍ぶ必要もなく堂々を武装して根本中堂仮堂の警備をしていた。公家衆を閉じ込めて以来、僧達は立ち入り禁止にしているという。
立花夫妻と弥助には外の警備に加わって貰うことにし、俺、雄二の2人で百地、服部の案内で公家衆の元に向かった。
俺の浅薄な日本史知識では、公家というのは一条から九条までの9家だろうと思っていたが、実際は違った。近衛とか飛鳥井とか他にも様々な家があったのだ。更にその家族もこの仮堂に収容しているから、まるで野戦病院のようなごった返しぶりだった。
そんな喧騒の先に仮設の牢ができており、ここに各公家の主達が収監されていた。
かつて、俺と雄二を板の間の廊下に正座させたまま無視して神経衰弱みたいなゲームで遊んでいたお白い爺共と5年振りの対面である。
先ずは俺から声を掛ける。
「息災か?三種の神器を売り払った国賊共!」
『誰だ?貴様は』
『お前がこの誘拐団の頭目か。麿達をこんな目に合わせてただで済むと思うなと』
どうやら、公家の中で俺達を覚えている者は誰もいないようだ。
「これは誘拐ではない。幕府の許可を得た正式な裁きだ。其方ら公家は恐れ多くも帝の象徴たる三種の神器を売り払い、その上、世が戦乱なのを良い事に当の昔に有名無実と化した古の役職を官位と称して全国に大名に法外な額で売り付け、長年に渡って私腹を肥やしてきたのだ。その罪万死に値す。其方らのやっていた事は、かの本願寺教如の極楽浄土への空手形と変わらん。いや、それ以上の質の悪さよ」
本願寺教如と聞いて、彼らの顔色が変わった。
教如が惨たらしい最後を遂げたことは、畿内にも十二分に伝わっていたのだ。
『貴様、麿達を殺めるつもりか?』
『麿達がいなくなれば、日ノ本の伝統文化も失われるぞ。歌道、蹴鞠などの伝統を守ってきたのは麿達なのだぞ』
「日ノ本の伝統文化だと?では、この日ノ本で歌や蹴鞠が嗜める者がどれ程いるというのだ?そんなことができるのは其方らに大金を献金できた一部の者だけであろう。其方らがやって来たのは日ノ本の伝統文化の秘匿と独占だ!」
「だが、安心するが良い。其方達は殺しはせぬ。この日ノ本はここの所、新たな領地が増えたのだ。其方らにも日ノ本の公家としての気概が残っているなら、新たな領地に日ノ本の言葉、文化、伝統を伝えよ。新たな領地は其方らは気に入ると思うぞ。何しろその顔に塗っている白い粉が一面の大地に広がっているような所だからな」
命は繋がったと知った彼らは幾分大人しくなった。公家は田舎に荘園を持っている。公式には当の昔に廃止された荘園だが、先祖代々の習わしだからと現在の領主の目を盗み律儀に献納してくれる地方集落はそれなりにあるのだ。”何処の田舎に飛ばされようと近くに自家の荘園はあるだろう”公家衆はそう信じて疑わなかったのだ。
*小田原城 北条氏政*
57歳の彼は、小田原城で悠々自適な毎日を送っていた。
伊豆・相模は氏勝がそつなく治めてくれているし、氏房や伊勢家と共同で河川への運河の設置で野分の被害は激減、伊勢家から提供される新肥料や漁網のお陰で収穫も増え、また、浅間山の噴火もここ小田原までは届かず、更に西日本で地震が頻発しているため小田原に避難してくる商人ら富裕層も多くいたので、このところの小田原は且つてない程の好景気となっていた。
氏政自身は瀬田正忠、古田織部といった小田原の戦い後に北条家臣に加わった茶人武将らと共に毎日茶の湯に耽る毎日である。
織部を頼って茶の湯の弟子の本阿弥光悦や小堀政一(遠州)が畿内の地震から避難してきたので、小田原の茶の湯文化は都にも劣らない位に花開いていた。茶聖・千利休やその高弟・山上宗二の墓所が箱根の早雲寺にあるというのも大きな理由の一つだった。
都や西からやってくる茶人達を一様に驚かせたのは、伊勢家領内で産するガラスの茶器の数々である。西日本にはないガラスの水差し、茶入れ、花入れ等、独特の風合いのそれらは茶人達の目を大いに楽しませた。陶器では決して出せない煌びやかな色合いの品から、侘びさびに通じる落ち着いた色使いの品までガラスが生み出す世界は非常に多様だったのだ。また、茶入れの蓋には従来の象牙だけでなく鯨の牙も使用された。その風合もまた新しさを感じさせるものだった。更に、伊勢領で作られる飛び鉋の技法で作られた優美な茶碗は彼らの目を一層釘付けにした。こうした新たな茶器の数々から小田原流という言葉が生まれる程だった。
『それにしても、当家が将軍家になるとは。父上が聞いたらさぞ驚くだろう。ふふふ』
氏政は床に入る前、この7年間の北条家に起きた激変を思い出して、笑みを浮かべてしまった。
彼は元々、秀吉と敵対する気などなかったのだ。秀吉を焦らして焦らして、最終的に関東管領でも関東探題でも、他の地域の大名より上の位を得ようとしていたのである。だが、その間に家臣が真田ともめ事を起こし、譲歩どころか大軍を迎える事になってしまった。『小太郎がおらねば危なかったな』
風魔小太郎の編み出した新しい兵器や策略で秀吉を倒し大軍を追い払えた。そして、今の領内の安定も元小太郎、伊勢直光の齎した物が多いのだ。
その時、なんとも懐かしい風、というか気配が氏政の寝室にそよ吹いた。
自身がまだ御屋形様と呼ばれ北条の総大将を務めていた頃によく漂った風である。
『小太郎?いや、直光か?』
気配だけで自分を知って貰えた、その主は影から嬉しそうに声をあげた。
「ご無沙汰しております。ご隠居様」
「早速ですが、ご隠居様、帝になってみませんか?」




