1596年9月19日 三種の神器
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『三種の神器が完成した』と連絡があったのは、都で鞍馬天狗との密談を終えた一週間後の事だった。
先代風魔小太郎の体に宿って6年余り、この頃になると先代が所持していた忍びの技や先代の記憶の一部が俺の意識に宿り始めていた。
その先代の体験の中でも、取分け興味をそそられたのが秀吉が小田原征伐を号令した時期の行動である。紀伊半島の道なき山中を堺を目指して野宿しながら歩む先代は途中、山中の集落に逗留している。その集落には金剛寺という寺があり、且つて南北朝時代の南朝方の帝の子孫の墓や彼らを忍ぶ式典が行われていると言う。興味深いのはその集落の長が先代に語った言葉だ。
『南北朝時代、本物の三種の神器を持っていたのは南朝方だったのです。後に南北が和睦した際に、三種の神器は北朝方に譲り渡されたのですが、その際、北朝方を完全に信用していなかった南朝方は三種の神器の複製品を作り本物と同じ箱に入れて保管したのでございます。
アッシらは、それら複製品や複製の際に作った図面、南朝の帝の御子孫がお使いになった武具などを拝する「朝拝式」を金剛寺にて毎年行っているのでございます。
複製とはいえ三種の神器です。帝の血統でもないアッシらは先祖代々、複製品の入った箱を開ける事もできず、毎年、ただただ拝むのみにございます。ただ、この辺りでは言い伝えがあります。”北朝の帝に渡した三種の神器は複製で金剛寺にある物こそ本物だ”という伝承です。北朝とともに都に渡った複製が本物として扱われ、100年ほど前には恐れ多い事に御所を襲った南朝の遺臣が三種の神器のうち神璽を奪い、この吉野まで持ち逃げしたという事件も起きております。その神璽は後に幕府に奪い返されたそうですが、言い伝えが事実とすれば実に愚かな行いです。何しろ本物は最初から全てここにあるのですから』
長はそう言って、日焼けした皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
大和国・吉野の金剛寺という寺は伊賀者の調べで直ぐに特定できた。俺は幕府に働きかけ、金剛寺に納められているという三種の神器の複製を作った際の図面を模写させてもらう許状を取り付けた。昨年秋のことである。
俺自身は当時、北条氏邦の乱の対応に追われていたので、許状を立花夫妻に託し、九鬼水軍の船でアベナンカ、セッパヤ他サヴァン症候群の細密画を得意とする者3名を付け伊賀者を案内人に金剛寺に送り出した。
セッパヤらの細密画はやはり模写の域を超える素晴らしい出来で、三種の神器の形状、寸法、材質等あらゆる資料が揃っていた。
この図面を元に木製の三種の神器の贋作を制作し地震の混乱に乗じて五右衛門に御所に入り込ませ本物とすり替えようとしたのである。が、鞍馬天狗に話した通り三種の神器の箱の中身は空っぽだったと五右衛門自身も驚きを持って波田家に伝えて来たと言う。
この話を聞いて俺は今回の計略を思い付いたのだ。三種の神器を売り払ったのはいつの時代か分からないが高位の公家か帝本人だ。何しろ普通の人間が持っていても古びた只の鏡、剣、勾玉でしかないのだ。相応の地位にいる人間が売り手でなければ物好きな商人も買おうとはしないだろう。
”この一件をネタに公家衆を国賊として誅し、商人から買い戻した三種の神器を御旗に今上帝には譲位を迫る”
最もいつどこの商人に売ったか分からない以上、三種の神器を買い戻すのは不可能だ。そこでセッパヤらが模写した精密な図面を元に新たに作る事にしたのだ。
三種の神器は八咫鏡、草薙剣、八尺瓊勾玉の三種であり、図面によれば前2器は青銅製、勾玉は赤瑪瑙である。
青銅器の制作は鍛冶師にはお手の物だが、三種の神器ということもあって細工師も加わって精巧に制作してくれた。勾玉は瑪瑙なので北常陸で簡単に取れるのだが、今回は真壁地区で産する柘榴石を使用し制作した。瑪瑙より柘榴石の方がより赤いというのが理由だ。
青銅器は耐食性に優れ古い物でも腐食は少ないのが特徴なので、敢えて古く見せるような加工はせず新品のままとした。これらを桐箱に入れ、後々まで本物となる贋作?の完成だ。
余談だが、吉野の金剛寺まで行ったセッパヤ達は久々の旅行に大はしゃぎで船中大変だったそうだ。そんな彼らも山中への登行は疲れたようで金剛寺では大人しく模写に徹していたそうだ。今度、利島にチャーシュー麵でも振る舞いに行って労ってやることにしよう。




