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1596年9月5日 サン・フェリペ号事件

浅間山は6月に再び噴火し、その火山灰は関東のみならず西にも向かい都にも届く程だった。更に6月は北西の空に彗星(ほうき星)が出現し、人々を不安に落とし入れた。


更に7月には都で大地震が発生し伏見城はじめ東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺らが倒壊、被害は淡路島まで及んだと言う。


俺はこの相次ぐ天変地異に”本願寺教如を殺した呪いだ”などという声が民から上がるのを心配したが、北陸でも畿内でもそのような噂は全くでなかったので一安心した。


俺は再び大きな被害を受けた氏忠さんの佐久平に、稲作を諦め薬用人参の栽培を薦めた。


というのも4月の噴火時に避難民に配布した蕎麦が大好評だったからだ。それまで蕎麦は蕎麦掻き、蕎麦焼きといった練り物や粥にして食する事が多かったが、これを麺に加工して醤油汁とワサビで提供した現代の蕎麦の食べ方が評判を生んだのだ。蕎麦麺に加工する技術は蕎麦切りと呼ばれ、全国に普及していくことになる。

さて、信濃で多く採れる蕎麦が主食として使用可能になったので、浅間山の噴火の危険がある佐久平でリスクを冒して稲作をやる必要はないだろうとのことで、薬用人参の栽培を提案した。薬用人参は収穫まで6年ほど掛かるが畑の栄養を全て取り込んでしまうので、収穫後10年近くを休耕地にしなければならないのだ。上手くローテーションを組んでも絶対に休耕地は出る上、人参は地中の栄養を取るから火山灰が降っても稲作程被害を受けないと言う利点もある。そして、現代でも佐久平地域は薬用人参の産地でもあったのだ。

特産に育てば高価な換金作物になり米など幾らでも買う事が可能になるだろう。


6月の噴火の際には、蕎麦に加えて房総産の麵も提供した。房総ではカンスイが採れる。つまり小麦と合わせて中華麺が作れるのである。これに房総の主製品である畜産品からチャーシューを乗せ醬油汁で提供した。所謂、醤油ラーメンだ。こちらも避難民に大好評を得た。房総名物に育っていって欲しいものだ。


旅続きだった俺は久しぶりに本拠・佐倉に留まって懐妊した正室・夕、側室・ラーニャ、ザワティとその側仕え達の子供達と共に過ごすことができた。




*同年8月15日 土佐沖南方*

野分による暴風雨の中を進むというより漂流するガレオン船があった。


¡Capitán!(船長!)

¡Corta el mástil!(マストを折れ!)

Tirar la carga(荷物を捨てろ!)

me hundiré(沈没するぞ)

¡No te rindas!(諦めるな!)

Traslado al San Felipe(サン・フェリペ号に乗り移れ)


マニラからアカプルコに向かっていたガレオン船サン・フェリペ号は荒波の中、僚船を失い、大量の積み荷を海に投棄し生き残った船員を収容、漂流を続けた。既にマストはなく帆を張る事も出来ず自ら進路を決める事も不可能になっていた。

そして、8月28日、サン・フェリペ号は土佐沖に到達、漁船に発見され、知らせを受けた長宗我部氏親の指示で浦戸湾に曳航されたが、既に満身創痍のサン・フェリペ号は傷みが激しく湾内で座礁してしまう。氏親は船員と無事だった荷物を領内の長浜で保護し、幕府に急使を派遣するとともに、友人である伊勢直光に村雲党を通して協力を求めた。


*同年8月30日 佐倉城下・百石屋*

村雲党から説明を受けた俺は、思わず唸ってしまった。

何しろ俺は僅か半年前にエスパーニャのガレオン船を襲い積み荷を奪い、小笠原島民の恨みがあったとはいえ全乗組員を殺害して証拠隠滅したばかりである。このことは勿論、幕府には話していない。


だが、氏親は幕府に裁可を仰ぐと共に、俺に直ぐに相談してきたのだ。日ノ本領内で最もエスパーニャ語を話す人員がいるのは我が伊勢家だから相談してきたのは当然ともいえるのだが、実直な氏親の行動に我が身が恥ずかしくなる思いである。


俺は実用化された三胴船ウオータージェット推進船で土佐に向かう事にした。

トランスミッションの開発は中々難しく、現状では水の噴出口を抑える為だけに使用するエンジンを増設した。また缶詰製造のお陰で職人たちの金属加工の腕前も向上し真鍮製の伝声管が製造できたのも大きかった。嘗てのような手旗での指令伝達から解放されたのである。


同行するのは伊勢直雷、九鬼嘉隆、正木為春(為春にとって初の外海航海だ)、中山照守、弥助と彼の配下になったアフリカンから2名。通訳はエスパーニャ語を話すブルネイ人女性2名に来てもらった。アフリカンもブルネイ人も日本に来て半年あまりで驚くほどの日本語上達ぶりだ。


最新の三胴船ウオータージェット推進船で土佐までは10時間余りで到着した。ソナとソナオは申川油田に帰ったが、ソナー要員は彼らの弟子達が務めている。やはり盲の者で”イルカがいます”と嬉しそうだった。この最新船にはもう竜骨キールも帆も舵も付いていない。エンジンの動力で進めるうえ方向転換も噴出口を遮ることで可能となったのでこれらは不要となったのだ。その為かソナー要員も従来より余裕があるのである。


さて、土佐・浦戸港に着いてみると氏親さんが出迎えてくれたが、まだ、幕府の使者は着いていないというので、氏親の案内で高知城に招かれた。先代・元親の時代は岡豊城という山城が長宗我部家の拠点だったそうだが、氏親の差配によってこの平城を築いたという。4重6階の壮大な天守閣が聳えていた。


2日後、幕府から使者がやって来た。松田直秀。小田原時代からの上様の直臣である。


伊勢家にも連絡を入れたと聞いていたのでエスパーニャ語通訳等は帯同せず警護の者10名程での来航だったが、京より遥かに遠い房総から俺達がもう着いていたので驚いていた。


さて、ブルネイ人女性の通訳でエスパーニャ人から聞き取りを始める。


漂着した時は衰弱しきっていたという彼らだが、ここ数日の静養でかなり元気を取り戻したようだ。


船長はマティアス・デ・ランデーチョ。船員20名の他にフランシスコ会2名、アウグスティノ会4名、ドミニコ会1名、計7名の司祭が逗留していた。アフリカンの奴隷も数名いた。


船長以下船員達は積み荷を返して船を修復して欲しい。と要求してきた。謝礼はマニラに戻りマニラ総督から支払うという。船の損壊具合から考えて虫の良い話である。


一方、司祭達は全員揃って『ヘススに合わせて欲しい』と懇願してきた。積み荷は全て日本に提供するよう船長らを説得すると言う。彼らは4年前にイエズス会が日本でヘスス(イエス・キリスト)と会見しこの地が新エルサレムであると告げられた事を知っていた。だが、イエズス会は会見の詳細を秘匿し自身の会とヴァチカンだけの秘密にしてしまったのだという。その理由は他の会派は偽者でありサタンの化身の可能性があるからだというのだった。以来、今回の3会派は日ノ本に来てヘススと面会する機会を得られないか検討を重ねていたのだそうだ。


俺は正直面倒くさくなってしまった。4年前聚楽第に設置したイエス再臨の仕掛けはまだそのままだが、当時は伊勢神宮もかなり迷惑そうだったし、また果心居士を連れて来て同じことをやるのも・・・


そんなことを考えている内に、船員と司祭の間で積み荷の扱いを巡って喧嘩が始まってしまった。


ブルネイ人によると、船員の中の航海長が『エスパーニャ王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民をキリスト教化し、後その信徒を兵力とし相手国を併呑する』と言っているという。つまり宣教師・司祭はエスパーニャの征服事業の為の先兵だと言っているのだ。これに司祭達が反発し非常に険悪な雰囲気になっていた。


こうなっては仕方ない。俺は氏親さんと松田に今回の差配について一つ提案を行った。

氏親さんは知らないが、松田は4年前のイエズス会洗脳の事は知っていた。


「積み荷を返さないという点では全員一致していると思ってよいか?」


俺の言葉に当然とばかり両者とも首肯した。


松田は『問題はただ一つ。エスパーニャ人をマニラに返すか?奴隷として使役するか?幕府としてもその認識です』


実直な氏親さんも船長の余りにも虫のいい要求や航海長の言葉に警戒を強めたようだ。


「では、司祭達を都に連れて行き希望に沿うよう取り計らおう。その上で、積み荷は没収。船長船員は奴隷にする事を納得して貰う。俺に一計がある」

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