1595年10月 真田幸村誕生
本州横断運河の開通に大きな功績があった真田信繁には恩賞を取らせることにした。
一つは足利氏姫が嫁いで以来、城主不在となっていた古河城主に任命した。仮にも公方がいた城下町だけあって、そこそこの規模の町なので、付近の渡良瀬川に小型水車を設置して発電、城下に街灯を整備した。
もう一つは、
「信繁。其方の兄は信幸、父は昌幸、祖父は幸隆。真田家の者は皆名前に”幸”の字が付いているが、其方には何故ついていないのだ?信繁と言う名は自分で所望したのか?」
『いえ、某も信繁と言う名の由来は良く知らないのです。先々代がお仕えした武田信繫公が名君だったので肖ったとか噂では聞きましたが、実際の所はよく分かりません。父に名の由来を聞くのもおこがましいですし』
「そうか。では、其方には真田の次男に相応しい名を授ける。新しい名は”幸村”だ。これを二つ目の恩賞とする。良いか?」
『殿直々に名を頂けるとは、恐悦至極にございます』
そう、新たな名を贈ったのだ。真田幸村がいなければ作ってしまえ!というわけだ。これを考えたきっかけは、以前、立花宗茂が自分に仕官してきた時に改名した時だ。あの時から、信繁が手柄を立てた際に幸村に改名させようと思っていた。
父親の真田昌幸、兄の信幸にも伊勢家の決定事項として改名の件を伝えた。因みに二人は氏照さん預かりとして2年奉公した後、今は真田家が欲していた上野の名胡桃城の城代となっている。これを聞いた時は豪放磊落な氏照さんも意地悪な一面があるんだなと思ったものだ。名胡桃城は沼田城の支城でこの時代なら廃城になっても不思議ない小さな砦なのだ。しかも城主でなく城代だ。態々二人に嫌がらせする為に残したのだろうか?しかし、真田の忍びを蝦夷に遠ざけてしまった以上、流石の智将・昌幸も何もできないだろう。
というか、知将・真田昌幸。ちょっと怖いが俺に仕えないかな?伊勢家は人材不足だから小さな砦の城代に燻らせておくのは勿体無い人材だよね。風魔に人物照会させてみようか。




