1595年10月 本州横断運河などなど
1595年から再開します。前章のスワ王国でいえば、もう日本人奴隷は来ないと分かりポルトガルに牙を剝く事が評定決議がされたのが1594年ですから、その一年後になります。
二年前に蠣崎家を改易し、蝦夷、樺太が伊勢領になって2年余り。蝦夷で採れる石炭を使用して釜石で製鉄を行う事業は順調だ。
現代人にとって三陸と言えばどうしても東日本大震災の印象があるので、釜石の高層建築を作るのを躊躇してしまう。なので、現在の釜石高炉の高さは50メートルに留めている。
しかし、高品質の鉄というか鋼が作れるようになったのはやはり大きな進歩だった。
中でも択捉島で採れるチタン砂鉄を用いたチタン合金は強度、耐腐食性とも最強の合金だ。これらは、内燃機関のピストンや海流発電機の外殻に使用している。難点は固すぎて冷温状態での加工が不可能ということだ。将来、人工ダイヤが開発されるまで鋳型に流して混んで製造するしかない。
そう、内燃機関はついに完成した。相良油田で玩具の餅つき機を動かすプロトタイプを見てから4年。ついに実用化にこぎつけたのだ。しかも、いきなりのレシプロエンジンである。これには驚かされた。これもやはり高炉により品質の良い鉄が作れたことが大きい。幸い、樺太のオハ油田、カタングリ油田は順調に稼働し今ではガソリン・軽油も量産体制なのでこれで船の速度はこれまでの比ではなくなるだろう。既に軽油を使用したディーゼルエンジンが一基製造されこれを用いたディーゼル船が航行試験中だ。
もう一つ、大きな話題は、本州横断運河が開通したことだ。
尿素の製造の為に新津油田から炭酸ガスを茂原まで輸送していたのだが、これまで1月近く掛かっていたのが、半月弱に縮まったのだ。しかも舟で直接輸送できるので一回当たりの輸送量も増大した。
また、これはガソリン。軽油にも言える事だがブリキ缶が製造できるようなったのも大きい。これまで青銅の製造に廻していた錫をブリキ製造に廻せるようになったのだ。鉄の表面に錫をコーティングすると耐腐食性が大きく向上するのだ。これがブリキである。流石にチタン合金の耐腐食性には敵わないが貴重なチタンを使わないので量産品には向いているのだ。
もう一つの大プロジェクト・海流発電と直接還元製鉄だが、こちらは二曲輪辛助が頑張っており研究開発は順調だ。海流発電機は前出のチタン合金による外殻が大変有用だったようだ。電線も石橋五平のゴムと石橋たまのポリエチレンのお陰で高圧配電線に進化している。石橋五平も石橋たまも今や現場は弟子に任せ、新津油田の研究所で主任教授として後進の育成に当たって貰っている。弟子も順調に育っており、申川油田や新たに採掘した蝦夷の石狩油田にも研究所を建設する計画がある。そうなれば彼らの弟子が教授となるので、孫弟子の誕生もあとわずかという段階だ。
俺が直接指導した、二曲輪辛助と二曲輪庚助だが辛助は海流発電と直接還元製鉄の開発奉行に就任、庚助は佐倉工科義塾学長として、工業指導に当たっている。
他に進展といえば小水力発電が領内で進んだことだ。元々香織製チート磁石を使用した発電機はあったのだが、宣教師を洗脳した時はまだ手回しだった。現在は河川に小型水車を設置して発電、街道や城下の街灯に使用している。小型水車は現代でも使われている技術で小さな水路の流れからも発電可能という優れものである。その原理の中核はアルキメデスの螺旋とかアルキメデス・スクリューと呼ばれる回転軸だ。現在は佐倉、茂原、佐原、館山といった主要な町に街灯が灯っている。佐倉を訪れる者は夜間のその明るさに不夜城とか不夜町と呼んでいるそうだ。そして、昼間はこの電力はバッテリー充電に廻している。バッテリーといえばニッケルだが、ニッケルは安房・鴨川の嶺岡鉱山で採掘できるので蓄電体制も万全だ。ここでも正にアルキメデス様様である。
最後は小笠原諸島の発見だ。すでに青ヶ島でのサトウキビ栽培が順調に行き房総との年2回の定期航路も開設されているので、その先にある筈の小笠原諸島を探索させたのだ。
正木水軍を率いる総大将に抜擢したのは、二年前に蝦夷・樺太・択捉を共に旅した元足利氏姫の家臣・小笠原秀政だ。前回の旅で秀政はコミュ力高いのが分かったので原住民とも友好関係を結んでくれるだろうと期待して送り出した。勿論、小笠原姓だという理由も大きかったが。そして、現地で一年弱かけて現地の言葉を学び、日本語を教え住民が日ノ本の民になる事を了承させた。土産に持って行った砂糖や、漁民が殆どの小笠原諸島で現地で行われていなかった投網漁を正木水軍の者が披露したのも大きかったようだ。日ノ本の民になった証として、ナイロン製の網を10束ほど贈呈したという。
私事では俺は二年前に夕を正室に向かえたのだ。忍びの出の夕を伊勢家の正室に向かえるのは色々と大変だった。夕の場合は母親は分かっていたのだが、織田信長とか上杉謙信とかの有名武将の出ならともかく、オミジョウサマとかいうマイナー武将では釣り合わないという事で、源氏の名門・上総武田家当主・武田豊信の娘という事にして挙式した。この時代の結婚式は相変わらず大変だった。
ただ、俺は双子の夕の姉の方と結婚したつもりだったのだが、妹も付いて来たのは誤算だった。妹夕曰く、
『殿、私達は2人で一人の夕なのです。姉と結婚するという事は私と結婚するということなのです』
と力説された。こんなドS女が妻なんて考えただけで眩暈がした。なので、
「俺の正室の一人(変な表現だ)になるのなら、下品な言動、行動は慎んでくれ」
と言ったら、
『私、殿以外には”殿方の股間がどうの”等言った事ありませんからご安心を。それに、私より姉の方が強いのですよ。姉は私が潰した殿方の睾丸の10倍は潰している筈ですわ』
『というわけで、側室を増やす際は事前に姉の了解を得る事をお勧めしますわ。婚前交渉等、勿論、御法度ですよ』
妹夕は小悪魔のように笑みを浮かべて俺に忠告してくれた。
それにしても、あの優しくて美人な姉にそんな一面があったとは知らなかった。なんと恐るべし歩き巫女!




