1597年のスワ王国・ブラジル攻略西方水軍
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1594年、首都”タカト”にてスワ王国の今後の方針が明確化されてから3年、王国は連戦連勝の快進撃を見せていた。その様はかつてアジアからヨーロッパを席捲した蒙古を彷彿させるものがあった。
大賢者”イデ”明智光秀は先頃没したが、嫡男である”ゴロ”明智光慶は父の叡智を充分に受け継ぎ”賢者”と呼ばれるに相応しい存在になっていた。
”イデ”光秀がノストラダムスから教わった新型大砲は高炉の増設と共に量産が開始され昨年から実用化されていた。
スワヒリ商人から購入した奴隷はユダヤ人が多かったが、他にアッシリア人、クルド人、傭兵の民とも言われるアルメニア人もいた。彼らはピグミー忍びの里で”サスケ”らの指導を受け、忍び適正の高い者はポルトガル語を学び大西洋上のポルトガルが支配するサントメ島、プリンシペ島、ビオコ島、セントヘレナ島に配属されていった。彼らのもたらした情報は、ある程度予想いていたが、島内のポルトガル人は
・エスパーニャに忠誠を誓っている者
・祖国が無くなって厭世的になっている者
・エスパーニャを嫌い独立を望む者
らに分かれていた。
スワ王国側は厭世的な者には”ポルトガルの復興”という媚薬を嗅がせ、島の独立を目論む者には”スワ王国の支援”という甘い汁をちらつかせ、味方につけて行った。こうして、島内に味方を得たスワ王国は少数のエスパーニャに忠誠しているポルトガル人を襲撃させ、毒薬実験奴隷として大陸に連行した。やがて、島々は加藤水軍、脇坂水軍の拠点となり、遠路はるばるやってくるポルトガルの大型船を港に引き入れ奴隷を乗せると見せかけ兵を乗船させ搭載物資の略奪を繰り返していった。船員はポルトガル人は実験奴隷に、他の国の者は島内に連行、素性を尋問され奴隷になるか、スワ王国に協力するか二者択一を迫った。彼らの方針は一隻たりとも一人たりとも帰還させないことである。帰らせてしまえば援軍の大艦隊が来る可能性があるからだ。
こうして大西洋を掌握した加藤・脇坂水軍は仁科盛信を総大将とし、日本時代からの譜代の臣、小山田大学助、小山田昌成、諏訪頼辰に加え武名高い高橋紹運、福島正則の両将を加えアフリカン兵、元アジア人奴隷兵、少数のアルメニア兵、合わせて1万の兵に戦象100頭という大艦隊を組んでブラジルに侵攻した。ブラジルにはキロンボというポルトガル人から逃亡した元奴隷のアフリカンが作ったコロニーが点在しておりスワ王国と交易していた。中でも一番大きいのはペルナンブコのコロニーである。彼らは上陸してきた一万もの多様な民族の大軍とその装備に驚き、久々に見る象に怯え、大混乱となった。粗末な椰子の葉で組んだ家にひっそりと暮らしていたキロンボであるが、憎いポルトガル人を襲いアフリカンを解放するという仁科軍の上陸に大いに勇気づけられ、兵に志願する者が続出した。結局、キロンボには若く体力も充分な戦える者が5千名程いたので、そのまま、仁科盛信軍の旗下に加わった。
既にピグミー忍びによりポルトガルが経営する各プランテーションは主に長い海岸線沿いに広がっており、どこまで続いているかわからない内陸部には鉱山探査に向かった一部のポルトガル人が入ったのみである事がわかっている。そしてキロンボは皆内陸にあるという。
そして、一番重要なポルトガル側の戦力だが、殆ど皆無と言って良い状態であることがわかった。もともとブラジルには国はなく、数種類の原住民が暮らす未開の土地だった。なので、征服というより開拓であり土地を奪われ抵抗する勢力などいなかったのである。更に原住民はポルトガル人が持ち込んだ天然痘などの疫病により数を減らし、残った原住民もイエズス会によりキリシタンに改宗されていき、脅威という存在ではなかったのだ。唯一警戒すべきはキロンボにいる逃亡奴隷からの報復だが、重い足枷を外して、或いは足枷を抱えたまま逃亡した彼らに満足な武器等ある筈なく、少数の銃兵で充分警備可能だったのだ。
そこに、ピグミー忍びの暗躍により各キロンボとプランテーションにいる奴隷達の連携が確立され、仁科軍の二万を超える兵が陸から、加藤・脇坂水軍が大砲で援護する体制が決定され、まず初めに最大キロンボに近いオリンダを攻略した。奴隷の逃亡しか想定されていないオリンダは全くの無力でありアフリカン奴隷は全て解放された。また、数は少ないが原住民奴隷もいた。彼らはトゥピ人といい奴隷使役されていたためかポルトガル語を話した。
解放奴隷を加えた仁科軍は船に分乗し南下、サルバドール、ヴィトリア、リオデジャネイロ、サントスと言ったポルトガルの港を次々と攻略、付近のキロンボと連携しプランテーションを襲撃、奴隷を解放して行った。プランテーションのポルトガル人達はエスパーニャとポルトガルの統合で利益を上げており、”ポルトガルの復興”という言葉は媚薬にならなかったので”ネギリ”されたが、一部、新キリスト教徒と呼ばれるユダヤ人がいた。彼らは差別に耐え兼ね表向きキリシタンになってるだけで、本当の信仰はユダヤ教とのことだった。ユダヤ人達には忍び適正がある者がいるので、忍びの里に連れ帰った。ブラジルの大地もアフリカ同様恵み豊かな土地だ。アフリカの食物に革命をもたらしたトウモロコシやマニオク(キャッサバ)はブラジル原産なのだ。解放奴隷の内アフリカへの帰国を希望した者は僅かだったのでサトウキビプランテーションは日本人奉行を置き現場作業は元奴隷アフリカンに任せ、スワ王国側から職人を呼び、鉄鉱石を発見、水車や高炉を建設し製鉄を開始した。また、社も建設し日本語指南役が本国より呼ばれ日本語教育が開始された。




