新型大砲
評価を付けて下さった方、有難うございます。
昨日、土岐頼芸様から素晴らしいレビューを頂戴しました。
文筆業とは無縁な素人の私が書き始めた本作。当初は何もわからず顔文字や、単芝(w)を多用していましたが、多くの読者様のアドバイスを頂戴し推敲を重ね、レビューを書いていただけるレベルにまで到達したかと思うと感無量でございます。お書き頂いた土岐様は勿論、数々のアドバイスを下さった読者の皆様に感謝、感謝です。これからも作品は続いていくので引き続きお楽しみください。
元々アフリカの製鉄の歴史は古く紀元前の遺跡からもその痕跡が見つかる程だ。そこにポルトガル人が奴隷使役していたドイツ人達の技術が加わった。スワ王国側は知る由もない事だが、ポルトガルを領有しているエスパーニアはカトリックであり、プロテスタントのドイツ人やオランダ人は抑圧されていたのだ。
アフリカにいるポルトガル人らが”ポルトガルの復興”を餌にスワ王国に恭順すると共に彼らが使役していたドイツ人、オランダ人も解放され、彼らの持つ知識技術の提供を求められた。スワ王国によって屈辱的な抑圧から解放された彼らもまた積極的にスワ王国に協力した。ドイツ人、オランダ人がカトリックのイエズス会を嫌っているという点も大きかった。
その解放ドイツ人の中に、高炉法製鉄の技術者がいた。彼らはそれまでの人力によって鞴を動かし風を炉に送り込む方法より、水車を使用し鞴を動かすことでより高温の炉を扱える高炉法製鉄を知っていたのだ。高炉法は14~15世紀頃ドイツのライン河流域で始まったのだ。ドイツ人にこれらの技術に習熟している者がいるのは不思議ではない。もとよりアフリカには河川も木炭に使う木も鉄鉱石も豊富にある。日本人の中には水車造りの名工もいた。高炉の建材となる耐火煉瓦も硅石が豊富にあるので直ぐに用意できた。
アフリカの川は多様だ。全てを圧し潰すような大瀑布から、水車の力を引き出すのに最適な滝もある。平坦な地を流れるライン河では有り得ない鞴からの風力に、それに対応した規模の高炉が作られていった。
彼らの作った高炉は高さ凡そ5メートル。一号機の竣工は1594年、彼らが解放されて僅か1年後の事だった。高温で出来た質の高い鉄を用い大砲の鋳造は進んでいく。
そこにノストラダムスから齎された螺旋の溝も取り入れられ鋳型に刻まれた。こうして試作された新大砲であるがノストラダムスが言ったように、砲の内径と同じ大きさの弾を先込め式で装填するのは非常に重労働だった。
そこで参考にされたのがフランキ砲の構造である。昔ポルトガル船から鹵獲したフランキ砲がスワ王国内にはあったので後装砲の構造を把握するのに時間は掛からなかった。アジアではポルトガルが高値で売り付けていたフランキ砲だが、ポルトガル領内では旧式砲だったのだ。青銅製のフランキ砲より遥かに丈夫な高品質の鉄製の砲身、砲弾には鉄より柔らかい銅弾を採用する事で、カノン砲程ではないがそれに準ずる口径の後装砲大砲が鋳造された。フランキ砲の欠点であるエネルギー漏れも質の良い鉄とブラジルから輸入したゴムを使用する事で補った。
ドイツ人の知識、アフリカとブラジルの豊かな大地、そこに日本人の緻密さが加わって完成した新型大砲である。




