待望の待ち人
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モンバサから日本人奴隷が大勢やって来たと、スワ王国の首都カミに連絡があったのは西暦で言えば1592年の事だった。モンバサはスルタン(王)・ユースフがポルトガルに表向き降伏した後、器用で働きぶりの良いジャポニス奴隷の優先的配備をズィンバ族に破壊された町の復興に必要としてポルトガルに要請していた。
ポルトガル人はそれまでアジア人を黄色土人として一括りにしていたが、モンバサの要請を受け入れジャポニス奴隷の優先配備に踏み切ったのだ。モンバサはアフリカ東岸最大の交易拠点でありポルトガルも自分達の港となったモンバサの復興を重視していたのだ。幸いジャポンでは大きな戦があったばかりであり、他のアジア人奴隷と引き換えに倭寇から大量に手に入れる事ができた。
こうして倭寇から入手した者に加えゴア等他で働いていた者も加え総勢千人近いジャポニス奴隷がモンバサに集まった。倭寇から手に入れたジャポニス奴隷とは小田原戦で敗れ孝太郎に売られた豊臣方の元兵達である。
尚、南部のテテにも大勢のジャポニス奴隷がいるが、
『テテの維持管理にジャポニス奴隷が必要』という、テテ商館長の印入りの嘆願書が届いたため、テテからのジャポニス奴隷の供出は行われなかった。
首都カミからモンバサまでは戦象を走らせても一ヶ月は掛かる。
”トノ”の義弟”モリ”こと仁科盛信を大将とする。100頭の戦象部隊がモンバサに向かった。副官に”トレス”森力丸、”ゴロ”明智光慶、”サカ”酒井氏武、”ダイ”小山田大学助、”マサ”小山田昌成、”タツ”諏訪頼辰、”カツ”尼子勝久”シカ”山中鹿介(幸盛)、”スエ”陶長房、”ツル”陶鶴寿丸、と10名も付く大部隊だ。奴隷の数が多いので聞き取りにも人数が必要と判断しこのような体制になった。
尚、”サダ” 陶貞明はカンボ女王と結婚しマタンバ王国常駐である。女王は既に身重であるという。マタンバ王国は最早、スワ王国に従属したも同然である。また、隣のンドンゴ王国もスワ王国軍師の見せた水攻めや窒息死作戦など、その戦い方に心酔しンゴラ(王)・ンジンガ直々にスワ王国の旗下に加わる事を表明した。とはいえ表向きはンドンゴ王国の名は維持されるのでここも従属状態だ。今は”ノガ”野上房忠が軍師としてンドンゴ王国に常駐している。
凡そ一月後、且つて”トノ”と”モリ”が再開を果たしたキリマンジャロの麓の野営地、今は”タカト”(高遠)と名付けられたマサイ族に警護されている村となったこの地で総勢千人という大集団の面通しが始まった。
その結果、明人、朝鮮人らが200人ほど混ざっている事が分かった。恐らくポルトガル人が倭寇に騙されたのだろう。それでも、日本人が800名という大集団である。更に武将級が十数名、それも水軍を率いていた者がいた。水軍兵として漕ぎ手をやっていた腕自慢も多くいた。水軍兵なら船大工は無理でも船の修理はできるだろう。スワ王国としては待望の水軍の結成が見えて来たのだ。
武将は次の通りだ。
加藤嘉明、脇坂安治、菅達長、来島通総、小浜景隆、向井正綱、熊谷元直、益田元祥、三沢為虎、以上9名ここまでが水軍武将だ。
加えて、羽柴秀勝、福島正則、金森可重、藤堂高虎の4名もいた。
羽柴秀勝は”コガ”衆”サイカ”衆から天下人と聞いていた羽柴秀吉の養子で文武両道の武将。
福島正則も羽柴秀吉の直臣で武勇の名将。
金森可重は茶の湯の心得もある文化人でかつ文武両道の何でも屋武将だ。
藤堂高虎も文武両道の武将であるが取り分け築城に才があると言う希少な存在だ。
ここまでが小田原戦で敗れた元豊臣方の武将である。水軍関係が多いのは船が沈む際に重い具足を捨て泳いで陸に逃げたので、一般兵と間違われ奴隷として売られた者が多かった為である。
”スエ”陶長房ら陶勢と”カツ”尼子勝久ら尼子勢は水軍武将に毛利家関係者がかなりいるのに複雑な表情だ。
そして、彼ら小田原で奴隷になった者達の他にもう一人武将がいた。名は高橋紹運。大友家の家臣である。1586年に38才で島津に敗れ没した事になっているが、紹運の才を惜しんだ高橋家重臣らによって落城間近に眠らされ、近習によって長崎まで運ばれポルトガル船に載せられたそうだ。流石に国外に出してしまえば大友に殉じて自害したりしないだろうという家臣の判断だ。彼らは大友家より高橋家の存続を望んだのだ。
ポルトガル船は年に一回しか来ないが運よく出港寸前の船に間に合ったらしい。いやより正確に言えば日本準管区長ガスパール・コエリョはキリシタン大名に日ノ本を統一させ、その後は日ノ本を明国に攻め入る先兵にしようとしていた。武名高い高橋紹運はその際に日ノ本軍を纏める将の一人として使えると考えたのだ。従って澳門では紹運は客として遇されていたが、1590年にコエリョが死亡すると扱いが悪くなり、やがて奴隷同然の扱いになり、最近はゴアでインド人の奴隷になっていた所をジャポニス奴隷招集で集められモンバサまで送られたという事だった。日本を出るときは10人いた近習も今は2人にまで減っているという。高橋はかつて追い詰められた島津が秀吉に敗北し、その秀吉も北条に敗死したと知って驚いていた。
以上14名の武将と千人の兵がスワ王国に加わった。
モンバサはその後、藤堂高虎の差配で美しく復興し、兵と共にスワ王国に向かった。
後日来訪したポルトガル人は余りにも早く美しく復興したモンバサに驚き、建築士について尋ねたが、スルタン(王)・ユースフは建築士はジャポニスだったが、マラリアで死亡した。他の奴隷達もマラリアを恐れて内陸に逃げ行方は分からないと答え煙にまいた。
今まではポルトガル人やアフリカンが呼びやすいニックネームを武将につけてきましたが、一度にこれだけ増えると流石に管理できないので今回追加の武将についてはニックネームは割愛します。




