モンバサ
マサイ族の村を発ったアフリカ北東部隊はキリマンジャロを目標に東へ東へと進む。マサイの若者30名は象に乗るのは初めてだったが直ぐに順応した。象は2人乗りだが、彼らの乗る象だけは3人乗りとなる。だが、戦象にとっては一人増えた位微々たるものである。
マサイの村を出てから20日ほど、ついに海が見える地帯に到達した。
その地は四方を海に囲まれた島だが、町のような廃墟のような人は住んでいると言うか流民の巣のような不思議な所だった。
”モンド”ら忍びを放ち、偵察をさせた結果、そこはモンバサという町で半年ほど前にポルトガルと内陸アフリカンのズィンバ族に海側と大陸側から襲撃され陥落したということが判明した。忍び達はもうバントゥー語系の言語ならかなり理解できるが、この町の住民が使用しているのは奴隷船時代によく聞いたバントゥー語系のスワヒリ語であるという。今はポルトガルの艦隊はなく、ズィンバ族が王として略奪の限りを尽くし君臨しているとのことだった。
ポルトガル艦隊がいないのなら、恐れる事はない。”トノ”はモンバサの解放を命令した。
ズィンバ族は半年近い略奪と女性への暴行、元々の住民の奴隷労働によって弛緩しきった生活をしており、ポルトガル人が置いて行ったのであろうブランデーやワインで昼間から酔っている者もおり、とても戦える状態ではなかった。
問題は島を囲む海である。狭い所でも200メートルはあり、川と違い水深もありそうだ。象で渡るのは危険である。草原の民マサイの若者も海を見るのは初めてで役に立たない。というわけで、忍びと泳ぎの出来る配下のアフリカンにより潜水部隊を組織し島に上陸、奴隷解放と舟の確保を優先する事にした。”モンド”ら5人の忍びを長とする1部隊10名の5部隊からなる潜水部隊、島には様々な舟が見えているが稼働しているのは地元の元漁民であろう奴隷の舟だけだ。漁船の中にズィンバ族なのだろう主人と思われる男が凶悪な顔でふんぞり返っている。ズィンバ族に限らずアフリカンは心の内が顔によく出るので実に分かりやすい。
忍びはともかくアフリカンは川泳ぎしか経験がないので海水での泳ぎにかなり苦労しているようだった。だが、上手く迂回して船尾に取り付いてしまえばあとは簡単、銛を構えて海ばっかりみている漁民奴隷を尻目にズィンバ族の主の喉を後ろから切り裂いていく。緩み切ってるとはいえ大柄なズィンバ族を忍びが仕留めるには背後からの急襲しかない。漁に出ている舟は10艘あまり、制圧に時間は掛からなかった。ズィンバ族を仕留め銛を構えて警戒している奴隷たちに味方のアフリカンが声をかける。スワヒリ商人と交易していたとかでスワヒリ語に堪能な者が配下に数名いたのである。
『自分達は南のスワ王国の者だ。モンバサを悪人から解放しにやってきた。どうか安心して銛を降ろして欲しい』
奴隷は
『スワ王国なんて聞いたことが無い。それに俺達は家族を人質に取られていてどうする事も出来ないんだ』
聞けばズィンバ族占領後は男は奴隷、女は征服者の慰み者になっているという。このあたりはどこの国でもやる事は同じである。女が自殺する懸念があるので子供は辛うじて食事だけは与えられているとい事だった。
これを聞いて”モンド”はピン!!と来た。女が慰み者になっている娼館は島内に二か所。その付近の檻に子供が大勢捕らえられているのを偵察時にみていたからだ。
”モンド”は通訳を使わず直接話しかける。
『皆の家族の女は娼館で働かされているのではないか?スルタン(王)の館に出仕している人質はいるか?』
突然の異人のスワヒリ語に驚く奴隷達。やがて、その中の一人が答える。
『俺の妻たちは全員娼館で働かされてます。俺達のスルタン(王)は奴隷になって今は島の東岸で要塞建設させられています。いま王の館にいるのはズィンバの盗賊のリーダー一味です。館で働いているのはポルトガル人が連れて来たあんたみたいな肌の女で、モンバサの女はいません』
”モンド”は少し思案したが、これらの舟に関しては結論は当に出てる。
『見ての通り、この舟のズィンバは既に死んだ。この状態で皆を島に返したらどうなるか分かるよな。人質も含めて全員見せしめに殺されるだろう。今漁に出ている舟のズィンバはもう全員死んでる。ここは一旦、大陸側の島から見えない場所に避難しよう』
そう言って大陸の北西側を指示した。北西の大陸側は深い入り江になっており、島からは陰になっているのだ。奴隷達もこれを了承し周囲の舟とも行動を共有、大陸北西に向かった。そこには大勢の象に赤い布を片肌脱ぎ暑そうにしているマサイ族やポルトガル人が持つのと同じような武器を所持している異人がいるので皆仰天していた。
奴隷達を宥め、水とモロコシ酒で持て成した。これで舟は10艘確保できたことになるが、とても象を乗せられる大きさではない。
”モンド”は”トノ””タロ”にアジア人女奴隷がスルタン(王)館を占拠しているズィンバ盗賊のリーダーの元で働かされている事を報告した。
また奴隷たちの家族が女は娼婦に子供は娼館そばで檻に入れられている事を伝えた。
これを受けて、今回のモンバサ攻略では戦象は使用しないことにし、舟をあと10艘拿捕したら夜間に種子島隊、マサイ族を含む槍隊で200名で島に乗り込むことにした。その夜、忍び5名は娼館、スルタン(王)館に忍び込み偵察を再開した。子供が閉じ込められてる檻の錠も確認したが、開錠は簡単なことが分かった。
結果、スルタン館にいるアジア人女奴隷は明人2名、あとは知らない言葉の女5名、白人2名の9名と分かった。また娼館は2館合わせて100人近い女が住み込みで働かされていおり、手狭になって急遽拡張したのだろう安普請の掘っ建て小屋が女達の寝床であることが分かった。
翌朝は殺したズィンバ族から剥ぎ取った衣類や装飾を身に着けた配下のアフリカンが主人に扮し、元奴隷達と共に5艘出撃し漁に出ている舟の側に向かう。忍びは夜勤明けなので休養だ。やがて相手の舟に次々と近寄るとアフリカンは大きな和弓を構え相手のズィンバ族を射殺した。大柄のアフリカンが使うと和弓はバリスタに近い破壊力である。戸惑う奴隷達に保護した元奴隷が事情を説明、合わせて10艘となった味方舟がまた漁をしている舟に接近、ズィンバ族を和弓で射殺した。最初に殺したズィンバ族の舟で主人役をやったのはマサイ族の若者である。彼らの投擲槍は威力精度共に和弓に全く引けを取らなかった。こうしてスワ王国側は5艘で出撃し20艘で帰還した。強い日差しと暑さのせいかこの日も島側に気付かれた様子はなかった。
その夜、というか夜明けまじか、休養明けの忍びと共に雑賀種子島隊100名、普段は赤備えの槍隊80名からなるスワ王国隊舟団がモンバサ島に潜入した。載って来た舟は25艘全てである。ズィンバ族は皆殺しの予定だが万一の事を考え人質輸送用に余裕を持たせて載ってきたのである。夜明け間近を選んだのは、この地の昼間は日差しが強く支配者であるズィンバ族は夜の方が活動的なのがわかったからだ。夜明け前とは彼らは寝る時間なのである。薄暮が始まろうかとという時間、3隊に分かれたスワ王国隊は一隊はスルタン(王)館に、もう2隊は娼婦の住居に向かった。いずれの場所も先行した忍びが門衛を殺し開錠を済ませている。館では眠りについた盗賊一味を次々と刺殺して行った。それとともにアジア人女奴隷の住む地下牢のような暗い場所にはスワ王国のアジア人が潜入其々の国の言葉で話しかけ救出に来たことを伝えた。
娼婦の住居では大半の女が戻って来ていた。それはそうだろう、何しろこの時間に寝ておかなければ睡魔を抱えたまま猛暑の昼間を過ごさねばならず寝るに寝れない地獄の時間を過ごすことになるのだ。スワヒリ語通訳を通じて奴隷解放に来たこと夫は既に保護している事を女達に伝え寝ている子供達の檻を開錠して助け出した。後は彼女らには舟まで案内し安全が確保されるまで大陸側で待つように伝え舟をだした。
モンバサの人口は最盛期は人口1万を超えていたらしい。だがポルトガルとズィンバ族の攻撃とその後の略奪により今は1千人以下になっている。支配者たるズィンバ族も略奪し終えた者はもう姿を消し、今ここに留まっているのは300名程度だそうだ。今も漁に出ない男奴隷は手枷足枷をはめて拘束しているが、半年近く反乱もないのでズィンバ族はすっかり油断していた。この時点で町の異変を感じたズィンバ族もいたが貴重な睡眠時間の方を優先したのだ。
ズィンバ族が寝ている家は直ぐに判別できる。元は金持ちの家だったのだろう港町に映える白く塗装された損壊の少ない豪邸である。それ以外のスラム小屋は奴隷の住処と言ってよい。訓練されたスワ王国軍は足音を消し忍びの案内に従って豪邸に次々と潜入、槍や刀で刺殺を繰り返していく。結局、朝日が昇るまでの僅か2時間の間にスルタン(王)館のリーダー一味始め200人を超えるズィンバ族の首が狩られ、町の至る所で棒に刺されて掲げられた。
ズィンバ族はポルトガル人から銃は渡されていないらしく、元より軍の体を成していなかった生き残りのズィンバ族達は恐れをなして次々と町から逃げ出していった。日差しが差し込んだ以上暗殺は無理なので、逃げるズィンバ族の背後からマサイ族の投擲や屋根に布陣した種子島隊の発砲が相次ぎ町は半年前同様の地獄絵図と化していった。半年前と唯一違うのはズィンバ族が狩る側から狩られる側に代わった事だけである。こうして一部の海に飛び込んだズィンバ族以外は大半が打ち取られていった。
残るは建設中だというジェズス砦だけである。この砦はポルトガル人が発注しスペイン人が現地の奴隷を使って建設中だという。他にはポルトガル人が置いて行ったアジア人の男の奴隷もいるという。ポルトガル人やスペイン人なら銃は所持しているだろうし、先程までの種子島の発砲音は届いている筈である。ポルトガル人スペイン人合わせて20名程というのが事前の忍びの情報であるが銃を所持している懸念がある以上油断はできない。
ここで活動したのはまたしてもマサイ族の若者である。彼らの投擲槍はマスケット銃の射程より長いうえ、槍の材料は略奪により倒壊した瓦礫に交じって豊富にある。
・短刀で棒きれの先端を削り槍を大量に用意する日本人槍部隊。
・威嚇射撃の雑賀鉄砲隊。
・応戦してきた敵を目視し槍を投擲するマサイ族。
このように役割分担を決め、作業を開始した。
槍は瞬く間に100本程よういできた。
雑賀による威嚇発砲が轟音を上げる。殆どの弾丸は砦の壁に到達したようだ、流石は雑賀である。
反撃に敵が小窓から銃口と顔を出した瞬間、マサイ族の投擲槍が彼らを襲う。
合わせて残りの雑賀が種子島を発砲する。
両者の距離は100メートルを超えており、射程内に捕らえているのはマサイ族の槍だけである。数回の応酬の後、敵は沈黙した。
遊撃に備えて側面を警戒していた忍びが偵察に向かう。瓦礫があるだけに強い日差しの下でも彼らの隠密ぶりは見事である。
やがて、潜入した”モンド”から入場可能のサインがでた。もうポルトガル人達は制圧されたというのだろうか?
如何にマサイ族の投擲槍が凄まじいと言えど、小窓から銃口越しにピンポイントで刺殺で全滅させることができるだろうか?訝りながらも軍は砦に向かう。
やがて事情が判明した。こちらとの交戦に夢中になっていたポルトガル人達の背後を突きアジア人奴隷が彼らを制圧したのだ。
この奴隷の中には日本人もいた。
モンバサの本当のスルタン(王)は現地人奴隷と引き離されアジア人奴隷と共にいた。彼の名はユースフといい、奴隷から解放されたことを感謝した。
結局、マサイの槍で殺害されたポルトガル人、スペイン人はおらず全員が捕虜になっていた。また、解放された奴隷は砦だけで男女合わせておよそ千名。建設中の砦で一番最初に完成させられたのが彼らが居住する地下牢だったそうだ。次いで町に住む奴隷達にモンバサが解放された事がスルタン(王)であるユースフにより告げられる。ユースフの家族も砦の牢に居るところを保護された。
ズィンバ族は余程モンバサ住民を侮っていたのか奴隷の内手枷足枷をされているのは一部の者だけだった。実際、彼らの多くは反抗する気力すら奪われていた。余程酷い目に合わされたのだろう。
島に残っていた舟で大陸側に解放が成功した事を伝え、避難させた女性らと共に”トノ””タロ”が護衛を伴って島にやってきた。ここで、奇跡の再会が起こる。
砦で奴隷働きさせられていた日本人奴隷の一人が、”トノ”の義弟・仁科盛信であることが判明したのだ。高遠城陥落時に死亡したと思われていたが、重臣と共に真田の忍びに影武者とすり替えられ、直江津から落ち延びたのだと言う。真田の忍びはその後、勝頼父子の救援に向かい博多で合流する予定だったが、何の行違いがあったのか合流出来ず、止む無く高遠城勢だけで南蛮船に奴隷として乗り込んだと言う。武田家滅亡が1582年だから凡そ8年振りの感涙の再会ということになる。また、高遠城の重臣、小山田大学助、小山田昌成、諏訪頼辰とも再会した。更にこの砦の日本人奴隷には他にも元武将がいた。旧尼子家の尼子勝久、山中鹿介、武田家と争っていた徳川家の嫡男・松平信康もいた。名門甲斐源氏・武田家の血族ということでこの中では仁科盛信がリーダー的役割だったそうだ。彼らがどうやって日本から脱出したのか定かではないが、おそらく其々忍びの手引きがあったのだろう、最早日本では死亡扱いの者達である。彼らは全員”トノ”こと諏訪勝頼の臣としてアフリカで一肌上げたいと願い出た。これでスワ王国は7名の戦国武将を新たに獲得したことになる。
スルタン(王)ユースフは改めて”トノ”に礼を言うと共にスワ王国の旗下に加わりたいと申し出て来た。ただこれを認めるにはスワ王国としても大きなリスクが伴う。モンバサは島であり戦象の突進力が使えない。ポルトガル艦隊の大砲に対抗する手段もない。また豊かなアフリカでも火薬だけは手に入れる事が出来なかったのだ。更にスワ王国には水軍がない。雑賀衆の一部は舟も操るが小早船程度の小舟が精々であり水軍を組織できるレベルではなかった。そして日本人が表立ってアフリカで版図を広げている事をポルトガルに知られたら、今後も来るはずの日本人奴隷がアフリカには来なくなってしまう。せめて元水軍の日本人奴隷が来るまではスワ王国の事はポルトガルには知られたくなかった。
こういった事情も踏まえてユースフと話し合いを重ねる。
ユースフからは
・建設中のジェズス砦には大砲10問と弾、火薬が既に備蓄されている。
・火薬や弾はスワヒリ商人から入手可能な事。
が伝えられた。ポルトガル艦隊は季節風に乗ってくるので来襲時期は予想できる。
一方、スワヒリ商人らはアラブ式のダウ船という小船で沿岸を伝って来るので季節関係なく来訪するそうだ。モンバサの復興には欠かせない商売相手だろう。
また、水軍はスワヒリ商人を通してオスマン朝に協力を求めれば組織可能とも言われた。
これらの話を受けて一度スワヒリ商人も交えて改めて話し合いの場を持つことになった。
ともあれ、東アフリカ最大の交易都市モンバサの解放はなった。




